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2017京都へ⑤

前回と前々回の天橋立の写真を素材に、しまうまプリントで冊子をつくりました。
叔父に送り、これでやろうと思っていたことの一つが、ようやく完結。

ブログは京都旅行の最終日、彦根城です。

京都南インターから高速道路で、約1時間で彦根です。

彦根城の駐車場のすぐ側、大手門橋。


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お堀にそって歩き、反対側の、入口にあたる表門橋へ。


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5月の連休中だったので、彦根鉄砲隊による、古式砲術が実演されていました。


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大きな音がするので、お子様にご注意くださいというアナウンスがありました。私は小巻が驚いてパニックになってはと、小巻の耳をふさぎましたが、小巻はさして驚いた様子もなく。



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大声で泣いている子もいました。



橋を渡って城内へ、表門券売所で入場券を購入。ワンコ連れの方も結構いました。

上りの石段が続きます。


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石段を上りきったところが、鐘の丸。小学校の遠足で訪れ、ここでお弁当を食べたような。


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彦根城は今の大河ドラマ、直虎由来の城。直虎の養子、直政が関ヶ原の合戦後、拝領した城というざっくりとした知識しかなかったので、もう少し調べてみました。


虎松(直政の幼名)は今川から命を狙われ、幼少期から寺にかくまわれるなどの逃亡生活。
過酷な運命が一変するのが1575年、虎松15才。鷹狩に出かけて上機嫌だった徳川家康への面会を果たし、それを機に仕官。

徳川家でお家再興を許された虎松は井伊万千代と名乗り、戦場や外交でも大活躍。
本能寺の変直後には、家康の「神君伊賀越え」を助けて褒美に陣羽織を拝領したり、旧・武田家の家臣を率いて「赤備え」を結成すると、小牧・長久手の戦いでは激しい戦闘で大活躍し、「井伊の赤鬼」として名をあげ、「徳川四天王」の一人となります。

井伊直政は、1600年関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城。
佐和山城は石田三成が改築し名城一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いにおける鉄砲傷がもとで、1602年に佐和山城で死去、享年42才。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年琵琶湖に浮かぶ彦根山に彦根城の築城を開始。

当初、ここ鐘の丸に大広間や御守殿が建てられ、佐和山城より移る。鐘楼があったため、鐘の丸と称されたそうです。
1732年に解体され、彦根藩江戸屋敷の広間に転用。




小巻も気持ちよさそう。


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城下町を一望。


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さらに石段を上り、太鼓門。石積みが美しい。


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天守がある本丸表口をかためる櫓門で、城内合図の太鼓を置いたところから名付けられたと言われています。


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彦根城天守は大津城から、天守櫓は長浜城から移築されたといわれ、1607年頃に完成し、直継が鐘の丸より移る。


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大津城の天守は4重5階であったと考えられていますが、彦根城の天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。
丸みをおびた唐破風や切妻破風を駆使した変化のある屋根は美しいです。





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花頭窓は本来、寺院建築にもちいられていますが、曲線が美しいです。
高欄付き回り縁は破風にさえぎられ、周囲をまわることはできないそうです。



マスコットキャラクター彦にゃんに会いたかったのですが、連休中だからかお忙しいようで、お城にはいなくて、彦にゃんのパネルがあったので、パチリ。


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直継は正室の子であったが病弱で、家臣らはまとまりに欠け、派閥争いが深刻化していた。
次男直孝は側室の子であったが優秀で、1614年の大阪冬の陣には直継に代わり、井伊勢を指揮。

その後、直継は病弱を理由に、直孝との家督交替が命じられ、上野・安中藩3万石の分知を受けた。

井伊直孝は彦根藩主となり、1615年、大阪夏の陣にて功労し、彦根藩は加増を受けて20万石となる。

1632年、井伊直孝は徳川秀忠の臨終に際して、松平忠明と共に枕元に呼び出され、3代将軍・徳川家光の後見役に任じられ、大老職のはじまりとなり、井伊家からは幕末の井伊直弼まで多くの大老を排出した。



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彦根城は、明治政府の廃城令により、解体の危機にみまわれました。
全国の城が次々と取り壊されていく中、大隈重信が視察に来た際、その消失を惜しみ、明治天皇に上奏し取り壊しを免れたと言われています。よかったですね。




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城の中に入るのは1時間待ち、小巻もいるので、入城はせずに西の丸へ。


琵琶湖が見えます。


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西の丸の西、三重櫓。


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中に入れるので、入ってみました。


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櫓の上からの眺め。西方(裏手)からの敵に備えた守りの要でした。


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西の丸の東にある黒門から出て、玄宮園へ。

広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。


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江戸時代初期に彦根藩4代藩主井伊直興が造営したとされています。



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回遊する園路は、当時園内に存在した4つの茶室へ誘うように巡っていて、茶会を中心とした大名の社交の場となっていたそうです。


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玄宮園を出ると、お堀には舟。彦根城のお堀を遊覧する屋形船です。


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駐車場の隅に、白い藤が満開、きれいでした。


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ようやく、京都の旅をまとめました。

次回はスペインの続き、取りかからねば。






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