鎌倉時代から室町幕府、戦国へ


12世紀末に、源頼朝が武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。
京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。

幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、全国の武士を支配下に治めたわけではない。
平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。
しかし、元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上全国を支配することとなった。

鎌倉幕府は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置。これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより禁止することになった。
武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。

源頼朝の死後、北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。

後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになる。

経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。

土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、御家人の生活を圧迫することになってしまった。また鎌倉時代中期から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、これに順応できない御家人が多く、生活が逼迫した結果土地を売却する御家人もいた。救済策として幕府は永仁の徳政令を発布するなどしたが、成果は得られなかった。

13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を阻止した。これにより「日本は神国」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い全くの外国が相手であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との信頼関係を損ねる結果となる。

元寇を機に幕府は非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。しかし、西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏が御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。御家人の心は次第に幕府から離れていくようになり、御家人達武士全体の不満がくすぶる結果となった。後に鎌倉幕府が崩壊する一つの要因となったとも言える。

また、承久の乱以後の朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇子孫への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇がこれを支持する公家と幕府に不満を抱く武士達の連携の動きが現われるのを見てクーデターを起こし、討幕運動へと発展する事になった。






1181年2月22日 平清盛死亡。
1181年8月 頼朝の正室・政子が男子を産みました。幼名を万寿、後の源頼家(1182~1204・征夷大将軍在・1202~03)となります。

膠着していた源平の戦いの情勢は、1183年に入って大きく動きはじめることになりました。5月11日、越中の倶利伽羅峠の戦いにおいて、木曽義仲は平氏軍に大勝。平氏は北陸道からの撤退を余儀なくされました。

京へ向って進撃する義仲の前には、反平氏の立場をとっていなかった延暦寺がありました。6月、義仲はこれを威嚇して味方に引き入れました。

平安京の帰趨を制する延暦寺が源氏方についたことにより、平氏は決断を迫られました。7月25日、平氏は安徳天皇(在・1180~85)を奉じて平安京を離れ、西国へ向いました。いわゆる平家都落ちとなります。しかしこの時に、後白河の身柄の確保に失敗してしまいます。

7月28日、義仲は行家と共に入京。8月20日、後白河は安徳天皇の弟にあたる尊成親王(たかひら)を天皇に立て、後鳥羽天皇(在・1183~98)となります。これにより源氏は反逆者の立場から脱し、平氏が朝敵とされることになります。

ここで頼朝が再び動きだします。頼朝は後白河に奏状を送り「平氏に押領された荘園は元の所有者に返し、平氏方についた武士は赦免する」ということを提案しました。その結果、10月、後白河は頼朝の東国支配権を保障する宣旨を発し、(十月宣旨)。そしてその宣旨の中で「この宣旨の内容に不服な者がいたら、頼朝に追討させる」と宣言しました。

はじめ、十月宣旨によって頼朝に全権が委ねられる領域の中には北陸道が含まれていました。これを知って、当然義仲は激怒。恐れおののいた後白河は、発令に際して「北陸道」の語は消しました。しかし、後白河の顔は、明らかに頼朝に向いていました。ただでさえ後白河に不満を持っていた義仲は、更に苛立つことになります。そして義仲と行家の対立も浮き彫りとなってしまいます。

頼朝は早速十月宣旨による権限を行使すべく、平氏の本来の根拠地である伊賀・伊勢を押さえる為に、義経たちを伊賀・伊勢へ派遣しました。十月宣旨がある為に、義仲はこれに手出しすることはできませんでした。更に平氏討伐の為の先発隊が、備中水島の戦いで敗れてしまいました。

後白河に見限られたことを察した義仲は、クーデターを起こし、後白河を幽閉。義仲は頼朝追討を命じる院庁下文を発給させ、1184年1月11日には自分を征夷大将軍に任じさせました。しかし、義仲が一片の文書でどのような高位を得ようとそれは何らの効果も持ちませんでした。1月20日、源範頼 (のりより)・義経の軍勢は宇治川の防衛線を突破し、敗走した義仲は、近江粟津で討ち死にしてしまいました。

1月26日、頼朝は義仲にかわって平氏追討の宣旨を与えられ、平氏との戦いの主役は、義仲から、頼朝に忠実な範頼・義経に移ることになります。そして義仲が自らの実力で得たものの全てが、頼朝の手中に帰すことになりました。

義仲の子の義高は、人質として頼朝の許にあり、頼朝の長女・大姫(1178~97)の結婚相手とされていました。しかし、義高を擁しての旧義仲軍の反乱を恐れた頼朝は刺客を差し向け、義高を殺害させました。

1184年2月の一ノ谷の戦いの後、源平合戦は半年ほどの間、休止の状態に入りました。しかし、その間にも頼朝の政治的影響力は、京・西国にも及んでくるようになります。更に、配下の武士たちの横暴な振るまいによって貴族や西国の人々の反発を買うことの回避に留意し、頼朝は諸国の武士の違法を取り締まる権限を行使して、違反者を厳しく罰しました。

朝廷は、頼朝の要求する全ての平家没官領の給付を拒否していました。しかし義仲が倒れたことにより、朝廷はそれを承認することになります。こうして「関東御領」と称される鎌倉幕府将軍の直轄領荘園群の原型が成立することになります。

頼朝の財政基盤が成立したことにより、それを管理する家政機関の充実が必要となりました。こうして設置されることになったのが公文所というもので、実務官人である大江広元が別当(長官)となり、更に裁判実務を扱う門注所が設置され、伊豆配流の時から頼朝に協力していた三善康信が執事(長官)となりました。こうして既に成立していた侍所とあわせて初期鎌倉幕府の主要行政機構の基本構造が成立することになります。

「朝廷の権威から独立した武家政権」というものの確立を目指す頼朝は、無断任官を禁じ「家人たちへの恩賞は、全て自らの意志によって与える」という確固たる方針を持っていました。ところが1184年8月、義経は後白河により検非違使・左衛門少尉に任じられ、それを義経は辞退しませんでした。これに頼朝は激怒。これをきっかけに頼朝は義経との間に距離を置きはじめ、平氏追討を範頼一人に委ねるようになります。

しかし範頼がなかなか戦果を挙げられないため、頼朝は再び義経に頼らざるをえなくなりました。1185年1月10日、京を発った義経は、迂回戦術をとった範頼とは対照的に、平氏の本拠地、四国の屋島を直接目指しました。暴風の中の渡海を強行した義経は、2月19日に陸路から屋島の平氏軍を急襲。不意をつかれた平氏軍は瀬戸内海上へ逃れ、別働隊の本拠地である長門彦島へ逃れていくことになります。

3月24日、壇ノ浦において、義経・範頼軍と平氏軍の戦いが行われました。この戦いで義経は、船の舵取りを殺すという禁じ手を強行し、平氏はなす所なく敗れ、安徳天皇をはじめ、平氏一門の者は次々と入水して果てていきました。

この壇ノ浦の戦いにおいて、頼朝は義経に 「安徳天皇・平徳子の確保」「三種の神器の奪還」 を厳命していました。後白河と頼朝の擁立する後鳥羽天皇の皇位の正当性を確かなものにする為には、特に三種の神器の奪還は至上命題でした。しかし、平徳子は入水後に救いあげられましたが、安徳天皇は海中に没してしまい、三種の神器のうち、神鏡と神璽は奪還に成功しましたが、宝剣は海中に沈みついに発見できませんでした。

こうしたことが、頼朝の義経に対する怒りの更なる要因となるのですが、更に折り悪く、壇ノ浦の戦いの後、頼朝に無断で任官する者が続出しました。頼朝は激怒し、鎌倉との縁きり、及び墨俣川(愛知・岐阜県)以東に姿を現したら、ただちに斬罪と布告しました。驚愕した無断任官者たちは、直ちに非をわび辞任し許されましたが、4月21日
になって、軍監・梶原景時からの書状が頼朝に届きました。そこで梶原景時は 「将兵たちは、平家を倒すまでは我慢してきたがこれ以上義経の下で働くのは嫌であると言っている」と述べました。無断任官の先駆、いくつもの将兵たちからの讒言、そして信任厚い梶原景時からのこの報告書が、頼朝に義経の追放を決意させました。

平宗盛を護送して鎌倉へ向っている義経には、頼朝に逆らう気などありませんでした。義経は頼朝に直接対面して弁明を試みるつもりでしたが、頼朝は鎌倉の西の入り口にあたる相模国・腰越で、義経にそれ以上の立入りを禁じました。
義経は弁明書を取り次ぎ役の大江広元にしたためました。これを腰越状と呼びますがその中で義経は、自分の功績を称え讒言を否定し、兄弟の情ばかりを訴えました。自分の行いに対する反省や詫びがまったくなかったのですが、最大の過ちは冒頭に「左衛門少尉源義経」という官職を書いてしまったことかもしれません。

頼朝は待たせていた義経に対して所領の没収を言い渡し、京都に追い返しました。畿内西国の行政権は義経の手から奪い取られ、7月28日には鎮西(九州)地域の治安維持の権限を頼朝に付与する後白河院庁下文が発せられました。
これは実質的な九州版の十月宣旨となります。これによって、平氏が試みたような九州を基盤とする巻き返しの道は、義経より奪い取られた形になります。

義経包囲網が完成していく中、8月になると、頼朝に対して不満を持っていた叔父の源行家が、義経に接近して、頼朝への反逆に誘いました。憤懣やる方なかった義経は、行家のこの誘いに乗ってしまい、頼朝打倒の挙兵を武士たちに呼びかけましたが、外堀を埋められた状態の義経の挙兵の呼びかけに応じる武士は、誰もいませんでした。

追い詰められた義経は、10月17日、後白河に迫って頼朝追討の宣旨を発給させました。頼朝の権力があまりに強大化することを恐れた後白河は、義経を統制下に置きながら、頼朝・義経の対立関係を利用して、かつて白河上皇が行ったような「東国を基盤とする源氏武士団」に対する、政治的コントロールの再現を狙いました。

しかし頼朝は動揺せず、10月29日になると、大軍を率いて鎌倉を発ち、上洛の動きを見せて、義経・後白河を威嚇しました。もはや京に留まることは不可能と判断した義経は、九州に逃れようとしましたが、暴風の為船は座礁してしまいそれはかないませんでした。それから2年間、義経の消息は不明となります。

義経の失踪により、頼朝は上洛を中止し、代官として北条時政を京に遣わしました。上洛は中止されたものの、後白河に対する威嚇の効果は大きく、義経は伊予守・検非違使を解任されることになり、11月25日、後白河は頼朝に対して「義経・行家追討」の院宣を与えることになります。

この間、頼朝は守護地頭を設置していきます。
守護は国単位で設置された軍事指揮官・行政官。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督。
地頭は、在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。






公家・寺社勢力の無用な反発を避けたい頼朝は、1186年になると朝廷との協調路線をとるようになります。西国への性急な進出を避け東国を基盤とする幕府の権力を安定させようとする、冷静な頼朝の戦略となります。

<奥州合戦>

1186年5月25日、潜伏していた行家が、和泉で捕らえられ処刑されました。
6月13日、義経の母(常盤)と妹が捕らえられ、関東に送られました。
7月29日には、義経の愛妾・静御前が生んで間もない男子が、由比浦で殺されました。

1188年2月になり、義経が奥州藤原氏の主・藤原秀衡(ひでひら)の許でかくまわれているという情報が、頼朝に入ることになります。朝廷は早速頼朝に対して、義経追討の宣旨を発しましたが、頼朝は「亡き母を供養する五重塔の造営と、自分の厄年により一年間の殺生禁断を誓約している」という理由で、これを辞退しました。

頼朝は、藤原秀衡に対して義経の身柄を引き渡すように、執拗に追求。これに対して藤原秀衡はシラをきりとおします。逆に藤原秀衡は、義経を擁しての鎌倉攻略を計画しますが、10月、この計画を実行に移す前に没してしまいました。
頼朝は、後を継いだ藤原泰衡(やすひら)に対しても、執拗な追及を続けます。泰衡もこれに対してシラをきりとおしますが、やがて義経を巡って、奥州藤原氏の中で内訌が起こってしまいます。

1189年2月、殺生禁断の一年間を終えた頼朝は、朝廷に対して義経追討の為の出兵の許可を求めました。殺生禁断の一年のうちに、頼朝は全国規模での軍事動員の態勢を整え、奥州遠征の準備を進めていたのでした。

義経をかくまったままでは攻め滅ぼされると観念した藤原泰衡は、4月29日、義経主従の起居する衣川の館を急襲しました。源義経は、ここに自害して果てることになります。

頼朝は引き続き戦いの準備を進め、7月12日、朝廷に対して、「罪人・義経をかくまっていた」と泰衡追討の宣旨発給を要請しました。朝廷はこの時ばかりは戦争継続の正当性を認めず、宣旨を発給しませんでした。しかし頼朝は折れず、1188年7月19日、頼朝軍は、頼朝自らが指揮する大手軍、千葉常胤らの指揮する東海道軍、比企能員らの指揮する北陸道軍の三手に分かれて鎌倉を出発しました。
奥州藤原氏を攻め滅ぼし、10月24日、鎌倉に戻りました。

奥州を平定した頼朝は、遂に上洛の行動に入ります。1190年11月7日、頼朝は六波羅の平頼盛の邸宅跡に新たに建てられた舘に入りました。かつての平氏権力の拠点であった六波羅は、こうして西国における源氏の拠点となり、後の六波羅探題へとつながっていくことになります。
11月9日、頼朝は後白河と対面し、12月29日に鎌倉に戻りました。この上洛によって、頼朝は国家的軍事警察の権限を得ますが、「征夷大将軍」を強く望むも、後白河は、これだけは妥協の姿勢を見せませんでした。

1192年3月13日、後白河が没す。
1192年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任じられ、名実共に「鎌倉幕府」が成立しました。


<曽我兄弟の仇討ち>
1193年5月、忠臣蔵と並ぶ日本史上最も有名な仇討ちとされる「曽我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件が起こります。
これは武士社会によく見られた所領を巡る私闘と、武力報復の 1つにすぎなかったのですが、曽我兄弟の事件は、それだけでは終わりませんでした。

所領争いのことで、工藤祐経は伊東祐親にうらみを抱き、狩に出た祐親を待ち伏せ、刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。

祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸が残され、満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、江藤祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。

祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられたが、出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、元服し、曾我五郎時致となった。

建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられ、翌5月29日、五郎は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。五郎は従容と斬られた。

なおこの事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)。」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。

1195年3月4日、頼朝は政子・頼家・大姫をともなって、再び上洛。そしてこの上洛を最後に、吾妻鏡における頼朝の記述は、1199年1月まで欠落。これは、何か都合の悪い重大事件があった為ではないか、と言われていますが、真相は闇の中となります。

1199年1月13日、頼朝は急死しました。頼朝は落馬し、その時の傷が死因とされていますが、その真相も闇の中となります。
源頼家は18才でとりますが、御家人たちの反発が続き、3ヶ月後には訴訟権限が幕府の有力御家人十三人の合議制に渡された。

梶原景時の変(1200年)、建仁の乱(1201年)、比企能員の変(1203年)などの内部紛争や反乱があったが、いずれも鎮圧された。

1203年 頼家は伊豆国に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。
政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

1203年 兄の源頼家が追放されると、実朝は12歳で征夷大将軍に就く。北条政子(伊豆国の豪族北条時政の長女、頼朝の正妻)は、尼御代となって手腕を振るう。

畠山重忠の乱(1205年)、牧氏事件(1205年)、和田合戦(1213年)により、北条氏の執権体制はより強固なものになる。

1219年1月27日、雪が降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、親の敵と叫んで実朝の首をとった。公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は、北条義時にこの事を告げ、公暁は討たれました。


<承久の乱>

源実朝が急死して源氏直系の将軍が居なくなり、将軍の座が空席となった。北条政子は京の皇族の鎌倉への下向を、後鳥羽上皇に要請した。最終的に決まったのが源頼朝の血筋で左大臣・九条道家の子・三寅(2才)であった。しかし三寅は幼いため、政子が代理として政務を見る事になった。世に言う「尼将軍」である。三寅は元服して藤原頼経と名のり、征夷大将軍になったのは8才の時。

後鳥羽上皇は、御子・土御門上皇、順徳天皇らと密かに倒幕の計画を練った。
1221年5月15日、ついに後鳥羽上皇は諸国の兵を募って挙兵した。武士が政権を握って以来、初の朝廷と武士との対決であった。朝廷軍には三浦義村の弟・胤義の様に、北条氏の専横に不満を持っていた御家人が加わっていた。

この様に鎌倉幕府の御家人達にも動揺が広がっていた。この時、政子は動揺する御家人に対して結束を呼びかける大演説を行い、後家人達を奮い立たせた。そして総勢19万の幕府軍は、12215月22日北条義時の嫡男・泰時を総大将に京へ攻め上った。これに対して上皇軍は2万1000騎を尾張に派遣し、6月5日から2日間長良川迎え撃ったが敗退した。幕府軍はこれに乗じて京へ攻め上がった。上皇軍は最後の決戦場として宇治川に防衛陣を置いた。

6月13日ついに幕府軍は宇治川を渡り京へ攻め入った。上皇軍は敗北した。幕府の戦後処理は厳しかった。上皇に加担した公家らは洛外で斬られ、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流された。臣下が上皇を流罪にしたのは日本有史以来であった。幕府は新たに京に六波羅探題を置き、朝廷との折衝や監視、西国の御家人の統率などを行わせた。承久の乱は武士から朝廷への政権交代を謀ったが逆に幕府の体制の基礎固めとなった。(そして、これから先は完全に武士の時代になって、明治維新までずーっと天皇家は政治に口出しできなくなってしまう。)


1225年 北条政子死去。連署、評定衆などの新たな役職が設置される。

1226年 藤原頼経が将軍に就任。

1232年 御成敗式目(武士政権のための法令(式目)のこと)の制定。

1242年、名執権と称された北条泰時が死亡する。

1246年 宮騒動。北条(名越)光時の反乱未遂、および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放され、京都へ戻された事件。年号を取って寛元の乱(かんげんのらん)・寛元の政変(かんげんのせいへん)とも言う。背景には、執権職を独占する北条氏内部の主導権争いと、北条氏の専横に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が要因にあった。この事件により、執権北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。

1247年 宝治合戦。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。

1252年 宗尊親王が将軍に就任。鎌倉幕府6代将軍で皇族での初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の事実上の長子であったが、母方の身分が低いために皇位継承の望みなく、九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入の危機感もなかったので、天皇と時頼の思惑が一致。

1272年 二月騒動。鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。


<元寇>

当時大陸を支配していたモンゴル帝国及びその服属政権となった高麗王国によって二度にわたり行われた日本は侵攻された。一度目を文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)という。

日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず、一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて、元の船団は撤退したとされる。

文永の役に続き弘安の役後も、幕府は元軍の再度の襲来に備えて防備を強化と御家人の統制を進めたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く十分な恩賞給与がなされず、全国から九州北部周辺へ動員された異国警護番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。


1285年 霜月騒動。鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、安達泰盛は平頼綱方の先制攻撃を受けた、一族・与党が滅ぼされた。
源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。

1293年4月12日 関東地方で地震が発生。建長寺を代表として多数の寺社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生、23,024人もの死者が発生じたとされている。また、この震災による混乱を利用し、鎌倉幕府執権北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。貞時の専制政治が始まる。

1297年 永仁の徳政令。鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本で最初の徳政令とされる
御家人所領の質入れ、売買の禁止、失った所領を回復させておく二次的な措置であり、幕府の基盤御家人体制の維持に力点があった。御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、大きな流れを止めることは出来なかった。

1317年 両統迭立。天皇家がそれぞれの家系から交互に国王を即位させことになる。後の南北朝に繋がる。

1324年 正中の変。後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して首謀者が処分された事件。密議に参加した武将は討伐される。後醍醐天皇は幕府に釈明して赦されるが、7年後に2度目の討幕計画である元弘の変を起こす。

1326年 嘉暦の騒動。執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛。同じ頃、都の朝廷でも大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化しており、北条一族の内紛は政局混迷の度合いを深め、やがて鎌倉幕府滅亡へと繋がっていく。


<元弘の変>

1331年 後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画がまたも事前に発覚。山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。
この元弘の乱は瞬く間に鎮圧され、後醍醐天皇は皇位を廃されて隠岐島配流となり、持明院統の光厳天皇(在・1331~33) の即位となります。

1332年11月、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月に赤坂城を奪回し、1333年1月には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。

幕府は再び大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向けた。まず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃吉野でも護良親王を破った。

残るは正成がわずかな軍勢で篭城する千早城のみである。だが楠木軍は、鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるといった奇策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとするが、千早城では城中に水源を確保しておりびくともしなかった。さらに楠木軍は一部が打って出て幕府軍を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせた。楠木軍は90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。

そうしている間に、幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいるとの報に触発され、各地に倒幕の機運が広がっていった。

2月には後醍醐天皇は名和長年(なわ・ながとし)の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。

1333年3月、幕府は足利高氏を大将に任命して出陣を命令。
足利家は1252年に宗尊親王が 6代将軍 (在・1252~66) として鎌倉へ迎えられた時に共に関東へ下り、武士に身分をかえて側近に仕えたのをそのはじまりとする名門。
この時幕府は、高氏が背くのではないかと恐れ、高氏に「異心なし」という起請文を提出させたうえ、妻・登子と嫡男・千寿王を人質として鎌倉に禁足しました。

高氏は一旦軍を丹波国の篠村へと進めました。この地は代々足利、そして上杉に縁のある土地となります。そして4月27日、篠村八幡宮において、高氏は幕府への叛旗を翻しました。

高氏が叛旗を翻した数日後、登子と千寿王は鎌倉を脱出。この時に庶子の竹若は捕らえられて殺されてしまいますが、あまりに迅速な彼らの脱出劇の為、叛旗を翻す前に、既にその内意が伝えられていたとも言います。

一転して高氏軍を迎え撃つ形となった六波羅は、5月7日には攻め滅ぼされ、5月8日には、上野・生品明神で同じく源氏の一門・新田義貞が挙兵。鎌倉を目指す義貞の軍勢に、鎌倉を脱出してきた千寿王が合流すると、武士たちは次々と新田軍に合流してくることになりました。

北条守時は軍勢を率いて新田軍を迎え撃ち、激戦を繰り広げますが、ついに力尽き、5月18日に自害。5月22日には稲村ヶ崎の防衛線が突破され、北条高時は東勝寺に移り、鎌倉在住の御家人たちも高時に付き従い、次々と自害して果てました。高時と共に北条得宗家に殉じた者、およそ 870名。足利高氏の離反からわずか一ヶ月で、140年続いた鎌倉幕府は崩壊しました。

高氏は六波羅討滅後、ただちに細川顕氏らに軍を与え、鎌倉に向わせました。ところが細川軍が鎌倉に到着した時には、既に幕府は新田義貞により滅ぼされてしまっていました。一触即発の事態となった両軍でしたが、千寿王を主君として擁立した細川方に、新田軍からは転身する者が続発。不利と判断した義貞は「異心なし」という起請文を提出して、この危機を回避しました。

六波羅探題滅亡の報せを受けた後醍醐は、ただちに帰京を決意。そして光厳天皇の在位を否定し、自身の在位を宣言しました。

高氏は既に奉行所を置いて戦後処理にあたっており、各地での軍忠の報告は、高氏のもとに集まってきていました。

鎌倉幕府打倒の第一の功労者とされたのは、楠木正成でもなければ、鎌倉を陥とした新田義貞でもなく、足利高氏とされました。それは「武勲にも家門の高さが関係する」という朝廷から見た評価基準であって、官尊民卑という、当時の論功行賞の当然の尺度であったのでした。

後醍醐は高氏に内昇殿を許し、鎮守府将軍に任じた上で、北条氏旧領の多くを与え「尊治」の一字も与えました。以後、足利高氏は「足利尊氏」となります。

尊氏は、戦功として与えられた関東八ヶ国を管領する権限を弟の直義に委任して、直義を鎌倉へ下向させました。一方、天皇親政・独裁方針の意欲に燃える後醍醐は、あらゆる政治面で斬新な君主政治の政策を打ち出しましたが、それらは全ての面で混乱をきたし、反発や怨嗟の非難を強く招くことになります。その最たるものが、事態が推移していく過程で、武士が既成事実的に獲得した領地などを全て否定して、後醍醐の意思を経由することを要求した恩賞問題かもしれません。(建武の新政)
人心は次第に後醍醐から離れはじめ貴族も武士も、後醍醐ではない収束の中心を求めるようになります。

反幕府の旗を掲げて抵抗運動を主導してきた護良親王は、大和にあって尊氏への対抗意識をあらわにし、後醍醐に対して尊氏を政権から排除することさえも求めました。護良親王は後醍醐の説得にも耳を貸さず、結局後醍醐が折れ護良親王を征夷大将軍に任ずることによって事態を収拾しました。ところがそれを知った尊氏は、後醍醐に対して強硬な抗議を申し入れます。困った後醍醐は、その企ては護良親王が勝手にやったものであると言い訳し、逆に護良親王を逮捕し、征夷大将軍の官を剥奪したうえで、尊氏の要望により護良親王を鎌倉へと護送させることを黙認。1334年11月には鎌倉へ流されることになりました。

1335年7月14日 中先代の乱。信濃において、北条高時の遺児・時行 ときゆき)を擁立した中先代の乱が勃発。時行軍は武蔵へ進撃し、各地で足利軍を破り、鎌倉に迫りました。鎌倉を任せられていた足利直義は、自ら出陣して時行軍を迎え撃ちましたが、逆に敗れてしまいます。鎌倉に戻った直義は、鎌倉撤退に際して、幽閉中の護良親王が時行軍に利用されることを恐れ、これを殺害しました。直義は三河に撤退。7月25日、時行は鎌倉に入りました。

報せを受けた尊氏は、後醍醐に対して東下の許可を求め、時行征伐に際して、征夷大将軍・総追捕使(そうついぶし)の官を求めましたが、これに尊氏による幕府開設の大義名分を見た後醍醐は、拒否。

8月2日、尊氏は後醍醐の勅許を得られないまま東下し、直義軍と合流。
8月19日には鎌倉を奪回し、中先代の乱は終息を見ることになりました。

尊氏東下の際、建武政権に不満を持つ多くの武士が、尊氏への強い信頼と期待をもって、続々とその軍に加わりました。建武の新政開始からわずか 1年にして人々は失望し、人心は新政府から離れてしまったのでした。
そして、中先代の乱をきっかけとして、南北朝内乱の扉が開かれることになります。

鎌倉を奪回した尊氏は、武家の棟梁として独自の判断で関東の秩序の再構築にあたりました。また、後醍醐が奥州に派遣していた義良親王(のりよし)と北畠顕家(あきいえ)に対抗させる為、斯波家長(しばいえなが) 奥州管領に任命。

こうした動きを建武政権からの逸脱と見た後醍醐は、更に強く帰京を命令しましたが、尊氏は帰京せず。
尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏するが、逆に後醍醐は、護良親王殺害と軍勢の私的動員とを理由として、尊氏追討を決定。新田義貞を大将軍として、追討軍を東下させました。

高師泰(こうのもろやす)を大将とした軍は、三河において義貞軍に敗れ、直義率いる軍も、駿河において義貞軍に敗れてしまいました。ここに至り、ようやく尊氏は鎌倉を出立し、義貞軍を打ち破りました。

敗走する義貞を追う尊氏・直義は、1336年1月に入京。後醍醐は近江国坂本に逃れました。後醍醐より尊氏討伐の命を受けていた北畠顕家は、足利軍を追って西上しており、足利軍にわずかに遅れて近江に到着し、新田義貞・楠木正成と合流。両軍は数度に渡り衝突を繰り返しますが、勝敗はつきませんでした。

しかしついに、楠木正成の策にかかった足利軍は大敗を喫し、尊氏・直義は丹波へ退き、更に摂津でも楠木正成にしてやられ、九州へと落ち延びていくことになります。しかしこの敗軍の将には、続々と多くの武士が付き従っていきました。官軍からも、尊氏に付き従って九州へ走る者が続出しました。

勝利に喜ぶ味方をよそに、楠木正成は後醍醐に勝利の報告につづいて、武士たちの心が義貞ではなく尊氏へと集まっていることを見て取り、更に、後醍醐と対立する構想を持ってはおらず、なお和睦を望む尊氏の立場を見抜いた上で、「新田義貞を誅伐し、尊氏を召抱えて和睦せよ」 と進言しました。

しかし後醍醐はこの建策を退けます。帰京した後醍醐は、東国の押さえとして北畠顕家を再度奥州へと派遣し、新田義貞に尊氏追撃を命令しました。

九州へ落ち延びた足利尊氏は、わずか一月後の3月2日には、九州最大の後醍醐方勢力の菊池武敏を筑前多々良浜の戦いで破り反撃に転じました。すでに尊氏は、持明院統の光厳上皇に働きかけ、院宣を得ることに成功し、朝敵の汚名を削ぐことに成功しており、かつ元弘没収地返付令を発することによって、武士の支持を得ることにも成功していました。

尊氏敗走後、ただちに追撃すべきであった新田義貞が京を出発したのは3月10日になってから。しかも播磨の白旗城攻めに固執して、50日余りも費やしてしまいました。そして城を攻略できないまま、足利軍東上中との報せを受けた義貞は、多大な損害を出しながら、摂津に撤退しました。

後醍醐は正成に直ちに摂津へ向い、義貞と協力して足利軍を迎え撃つように命令。1336年5月25日、湊川の戦いが行われ、新田軍は総崩れとなり敗走。楠木正成は、この戦いで討死してしまいます。

敗戦の報せを受けた後醍醐は、再び比叡山へ逃れました。尊氏は入京し、以後半年に渡り、両軍の激戦が繰り広げられることになります。この激戦で、名和長年は討死し、後醍醐方は大打撃を受けることにもなります。

その最中の8月15日、光厳上皇により光明天皇(こうみょう・北朝ニ代・在・1336~48) が即位。三種の神器が後醍醐の元にある為、三種の神器を伴わない変則的な即位となります。

比叡山攻めに苦戦していた尊氏ですが、補給線を断つという手を打ちました。ここに至っても尊氏は後醍醐との融和を求めていました。兵糧攻めに苦しむ後醍醐は、尊氏の申し出を受け入れ、10月10日、遂に下山し京に戻りました。

後醍醐はこの講和交渉を独断で進めていました。帰洛直前になってそれを報された義貞らは猛反発しました。そこで後醍醐は、恒良親王(つねよし)に皇位を譲り、義貞を随行させて北陸へと落ちさせました。

1336年11月、法制家や学問僧らは、彼らが答申した 「建武式目」 十七条を提出し、これを尊氏・直義が承認・採用し、政治に全面的に実施施行されることになりました。
ここに、事実上の室町幕府(1338~1573)ははじまることになります。


<南北朝時代の幕開け>

越前金ヶ崎城に立て篭もった義貞でしたが、尊氏は高師泰に兵を与え、これを攻撃。
1337年3月6日に城は陥ち、義貞は脱出に成功しますが、恒良親王は捕らえられ、京へ護送され、翌年毒殺されました。
義貞も、1338年7月には、越前藤島の戦いで討死することになります。

後醍醐と尊氏が講和したわずか 2ヶ月後の 1336年12月21日、後醍醐は神器を持って京を脱出し、吉野(現奈良県吉野町)へと走り、自身の復位を宣言しました。北畠親房 (ちかふさ・顕家の父) が勧め、楠木一族が手引きしたと言います。そして足利方の討伐を諸国に呼び掛けました。

この時には 「京・吉野・北陸」 と、3人もの天皇がいたことになります。


<室町幕府>

1338年5月、奥州から大軍を率いて上洛し、尊氏と戦っていた北畠顕家が、和泉石津の戦いで、高師直(こうのもろなお)と激戦を繰り広げた末に討死。

7月には、新田義貞が越前藤島の戦いで討死。そして義貞討死の 2ヶ月後にあたる1338年9月、尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任命され、ここに正式に室町幕府がはじまることになります。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていた事に由来する。

その一年後の1339年8月16日、南朝の主・後醍醐天皇は、吉野で没することになりました。

尊氏は、直義と政務を二分し、二頭政治の制度で臨もうとします。
尊氏が軍事・行賞を担当し、直義が裁判や民政を担当するという構図になります。
ところが尊氏は、煩雑な雑務処理を嫌うようになり、自分の仕事や権限のほとんどを、随一の寵臣・高師直に委ねてしまいました。これは高師直の不遜や傲慢さを助長させてしまうことになります。

室町幕府の初代将軍というと、当然足利尊氏となるのですが、後醍醐との対決をはじめ、要所要所でふさぎ込む尊氏を叱咤激励し、尊氏に代わって緒戦の指揮を執りもし、武家政権樹立へと向わせ、建武式目の起草を行うなど、室町幕府の政治的な秩序の設計者となるのは、むしろ直義でありました。

直義は知的・理性的な人物であって、禅・儒をもって自らの思想の基軸とし、力ではなく、法によって規律される秩序世界を目指しました。これに対して高師直・師泰兄弟の特徴は、実力行使によって作り出された既成事実を、ほとんど無制限に認めようとする点にありました。
もっともこれは高兄弟が特別であった訳ではなく、武士一般がそのようなもので、むしろ直義の方が異端であったことになります。

この 2者が反目するようになるのは、当然の成行きでした。2者の意見は対立し、それは日ましに深刻なものとなっていきます。

足利直冬は、義詮の兄にあたる人物ですが、母は身分も素性も全く不明の人物となります。尊氏はこの息子を嫌い、寺に預け不遇な日々を送ることになりました。これを見かねた直義は、これを引き取り養子とし自分の「直」の一字を与えて「直冬」と名乗らせました。

尊氏が征夷大将軍になった時、上洛して面会を請いますが、拒否されてしまいます。しかし直義の後ろ盾もあり、軍勢の大将となったこともあり、戦功も挙げます。しかし、尊氏と直義の対立が、直冬の前途を暗澹たるものとしてしまうことになります。

1349年、尊氏に対して高師直の罷免と追放を迫りました。
8月、これを知った高師直は、先手を打って兵を集め、直義を襲撃。直義は尊氏邸へ逃れましたが、高師直は尊氏邸を包囲。尊氏は高師直と交渉し、その結果、直義の政務への関与が停止され、代わって鎌倉に在った義詮(足利尊氏の三男、後醍醐天皇の軍を討つため尊氏が出発する際、人質として鎌倉に置かれた。鎌倉幕府滅亡後、細川和氏らの援助で関東を管領。)を政務にあたらせることで落ち着きました。
そして、義詮に代わって基氏(尊氏の次男)が鎌倉へ赴き、後に初代鎌倉公方として数えられるようになります。

この時、直冬は中国探題として着任すべく備後に在りましたが、直義を助けるべく東上しようとしました。しかしこれは高師直の命を受けた赤松則村に阻止され、高師直は更に尊氏に求めて、直冬の追討を命じさせました。

1350年10月、この直冬を討伐すべく、尊氏は自ら軍を率いての西征を決定。ところが尊氏出立の直前に、直義が京を脱出。高師直は直義探索を求めますが、尊氏はこれを承認せず、予定通り京を出立しました。

直義は大和から河内へと赴き、ここで「師直・師泰誅伐」の兵を挙げ、更に南朝に降って南朝勢力を味方につけました。更に北朝内でも直義に応じる者が相次ぎ、ここに至って尊氏も西征を中止して、軍を返しました。
ここに始まる一連の動乱を 「観応の擾乱 (かんおうのじょうらん)」 と呼びます。

1351年2月、各地で直義方に敗れた尊氏は、師直・師泰の出家を条件として、直義と講和しました。尊氏は師直・師泰を従えて京へ向いますが、その途上、高師直に恨みを持つ上杉能憲 (よしのり) がこれを待ち受け、尊氏と引き離したうえで、師直・師泰を刺殺してしまいました。このことは、尊氏をおおいに憤慨させることになります。

事態は収まったかに見えましたが、直義に反感を持つ者も少なくありませんでした。直義と共に政務を執る形となった義詮ですが、両者の関係はうまくいかず、やがて義詮は、反直義派の結集の核となります。

7月になると、尊氏・義詮方の武士が戦の備えをはじめ、8月1日、直義は京を脱出し、越前・金ヶ崎へと逃れました。9月、近江で敗れた直義は、11月に鎌倉へと入りました。
一方、尊氏は南朝との和睦交渉を進め、南朝主導による両朝統一をさせます。これはすぐに破綻してしまうのですが 「正平の一統」 と言います。

これを受けて尊氏は京の留守を義詮に託し、自らは軍を率いて鎌倉へ向いました。直義方の軍勢を打ち破った尊氏は、1352年1月5日、鎌倉に入りました。直義は鎌倉へ幽閉の身となりましたが、一ヶ月後の 2月26日、直義は急死しました。それはちょうど高師直・師泰兄弟の命日の日で、毒殺との説もあります。

武士の処遇などを巡って、京の義詮と南朝との関係は、不穏なものとなっていました。2月20日、北畠親房率いる南朝軍が京に入り、義詮は近江へと逐われました。
同時に関東でも新田義興が鎌倉を陥とし、尊氏も鎌倉より逐われました。しかし南朝の勝利は長続きせず、3月12日には尊氏が鎌倉を、15日には義詮が京を奪回。まもなく北朝が再建されることになります。

直義を死に至らしめた頃から、尊氏は重く病むようになってきてしまいました。1358年には九州へ遠征に赴く計画を立てていましたが、義詮の忠告により遠征は取り止めとなります。そして 4月、京の自邸で死去しました。死因は、背中にできた悪性の腫瘍の為であったと言います。




1358年4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。

1367年、2代将軍義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となった。このころまでに反幕府方の畠山国清・大内弘世・上杉憲顕・山名時氏らが幕府に降っており、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失い、管領細川頼之は幼い将軍を補佐し、1368年には南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力が安定。

1408年、急病のために死去足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。
これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。

1423年に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。

6代将軍はくじ引きで選ばれる事とされ、義満の子で僧門に入り、比叡山座主であった義円が還俗して、将軍足利義教が将軍となる。義教は義満の政策を踏襲した施政を始め、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられている。
1441年 赤松満祐により義教が暗殺された(嘉吉の乱) きっかけに将軍の力は衰えた。

その後は幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で国が運営された。8代将軍・足利義政は芸術や建築に関しては優れた才覚の持ち主であったものの、政治的関心には乏しく、自然と政治は将軍の正室・日野富子や将軍側近、有力大名らによる権力抗争の場と化し、関東で鎌倉公方の復活を巡って生じた享徳の乱が発生しても、十分な対策を打とうとはしなかった。

義政は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者にする予定であったが、富子に息子・義尚が生まれると、後継者を巡って義視支持派と義尚支持派が対立した。前者は管領・細川勝元を後者は有力大名の山名持豊(宗全)を中心に擁して対立を深めた。更に管領を輩出する畠山氏・斯波氏でも家督相続を巡る争いが発生して将軍後継者争いと連動を始めたことから問題は複雑化していった。

やがて、両者の対立は全国の大名の兵力(享徳の乱の最中の関東を除く)を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。だが、大規模な軍事衝突にも関わらず、参加諸大名の士気は低く、かと言って勝利の際の利益配分を期待しなかったわけではないため、結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行う事になった。そのため、義政がこれ以上の政治参加にあぐねて義尚に突然将軍を譲って引退しても、また両軍の総大将である細川勝元・山名宗全が相次いで病死しても諸大名は兵を撤退させることは無かった。兵を撤退させる事になったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。

結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。だが、この乱をきっかけにした戦闘は応仁の乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続された。

この争いによって幕府の政治的・経済的基盤は崩壊して将軍の権威は名目のみと化した。だが、新将軍・義尚は若くして病死し、引退した父・義政も銀閣をはじめとする東山山荘の造営に余生を費やして、芸術の世界にのみ生きた(とはいえ、義政の芸術保護が後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えた事は否定できない)。

また、皮肉にもこれまで将軍の権威をないがしろにしてきた諸大名も将軍の権威が本当に失われてしまった事でそこに由来していた守護としての統治権そのものの権威までが失われてしまい、配下であった守護代や国人衆による下克上、更には加賀一向一揆や山城国一揆に代表される民衆の一揆からもその領国支配を脅かされるようになっていくのである。

<戦国期>

応仁の乱で将軍の権威は完全に失墜し幕府の権力は衰退したが、将軍の軍事的な実権はある程度保たれていた。乱のあと、将軍の権威に変わる形で管領細川政元が絶大的な権力者として台頭するようになった。義尚の死後、将軍の座は義視の子・足利義材が継承していたが、義材と対立した政元は、義材と結ぶ元管領畠山政長を討つと、明応の政変を引き起こして義材を追放して足利義澄を新将軍に擁立した。戦国時代の始まりは長らく応仁の乱がきっかけとされてきたが、今日では明応の政変をきっかけにして戦国時代が始まったとする説が有力になっている。

家臣である管領が将軍を廃したこの事件によって政元は細川京兆家による管領職の世襲化と独占状態を確立し、さらに将軍の廃立権をも手中に収めたのだが、その天下も長くは続かなかった。自らの後継者を巡る家中の内紛で殺害されたのである。以後、政元の養子である細川澄元と細川高国が後継管領を巡って争いを始めた。これを知った前将軍義稙(義材改め)は、大内義興とともに上洛、細川高国の出迎えを受けて将軍位に復した。だが、大内義興が本国情勢によって帰国すると、高国は亡命先で没した義澄の遺児足利義晴を新将軍に擁立して義稙と澄元連合軍を破った。

最終的に澄元の子・細川晴元が高国を倒し、義晴を新将軍と認めその管領になる事で20年以上にわたる内紛に終止符を打った。結局、一連の内紛で幕府そのものが衰微し京都周辺を収めるだけの地方政府へと転落し、辛うじて守護に代わって全国に割拠した戦国大名への権威付け機関としての存在感を示すだけのものと化した。

だが、晴元が政権獲得の最終段階で功臣・三好元長を殺害した事が後年大きく裏目に出る。元長の子である三好長慶兄弟が晴元に対して挙兵、晴元を追放して将軍足利義輝を傀儡化した。長慶は晴元の後任に傀儡の管領を立ててその職権を奪い、相伴衆の一員として幕政の全権を掌握した。だが、その晩年には重臣の松永久秀に実権を奪われて病没した。

この状況を見た将軍・義輝は上杉謙信(関東管領)をはじめとする親将軍家の戦国大名の支援を受けながら、将軍権威の再建に努めるが、その矢先松永一派のクーデター(永禄の変)によって暗殺された。その弟・足利義昭は管領斯波氏の元家臣織田信長の支援を受けて上洛して松永らを降伏させて将軍に就任する。だが、やがて「天下布武」を唱えて新秩序形成を目指す信長と旧来の将軍・幕府中心の秩序の再建を目指す義昭は敵対し、1573年に義昭は信長によって京都から備後へ追放されて管領などの幕府組織は信長の築いた政治機構に解体・吸収された。

その後も義昭は征夷大将軍職を解任されていない事を正統理由とし、備後から各地の大名を動員し、信長征討活動を行うが、信長による新秩序形成の勢いの前には無力であり、義昭の京都追放の時点をもって室町幕府および室町時代の一応の終期と看做されている。





一応、これで日本史のお勉強は一区切り。

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