平安時代 ②

関東もついに入梅。お勉強は奈良時代後期です。





10世紀半ば、醍醐天皇(在位897~930)や村上天皇(在位946~967)の親政のもとで、王朝政治は盛時を迎えます。京都を中心に貴族文化の華が開きましたが、その裏側で律令体制は崩れ始めており、貴族たちは生活基盤としての荘園の設立に積極的となり、公地は減少する一方でした。
地方に対する中央の統制力は減退の一途を辿り、治安は乱れることになりました。

地方においては、在地有力者は自ら開発した土地などを権門に寄進し形式的な荘園領主と仰ぎながらも、自身は実質的な領主権を確保していきました。
彼らは自衛の為に武力を持つ必要があり、こうして成長した在地領主こそが武士のはじまりでした。

11世紀に入ると地方の武士団の成長は著しいものがありましたが彼らの身分は極めて低いものでした。彼らは貴族などの伝統的な権威の前には極めて弱く、むしろ積極的に貴族などに臣従して、その権威によって自らの私領の安全を願うようになりました。

他方律令体制は崩壊していた為、身を守る為には武力的にも優れたものが要求されました。そしてこうした武士たちの棟梁として仰がれるようになったのが貴族の出身でありながら、武勇の家として高く評価されていた桓武平氏と清和源氏でした。
桓武平氏というのは、その名の通り桓武天皇の子孫です。
清和源氏については、939年平将門の乱が勃発すると、清和天皇の孫で武蔵介であった経基王(つねもとおう)は、将門を恐れて京都に逃げ帰り、反乱勃発を奏上しました。この奏上の功(?)により源の姓を賜り、清和源氏が誕生することになります。経基王自身は、とても武勇の者とは言えない人物でしたが、その子らは武勇の者として名を高めることになります。

1028年、平忠常の乱が東国で起こり、追討使に命じられた平直方は追討に失敗、これに代わって追討の任にあたったのが源頼信で、頼信は1032年に平忠常の乱を平定しました。
頼信の嫡男で、平忠常の乱平定に父と共に活躍したのが源頼義で、平直方はその武勇に感心し、頼義を娘婿に迎えました。

1062年、奥羽で安倍頼時が起こした反乱・前九年の役を頼義が平定。この頼義と平直方の娘の間に産まれた嫡男が、後に”天下第一の武勇の士”と称されることになる源義家(八幡太郎義家)です。

1087年、義家は出羽の清原氏の反乱・後三年の役を平定し、武勇の誉れを輝かせ、河内源氏は武門の棟梁としての地位を確たるものとすることになりました。

後三年の役を平定した義家でしたが、朝廷は「私闘である」として褒美を出さない旨を通達してきました。激怒した義家でしたが彼は私財をなげうって兵士に報いました。すると各地から義家に対する所領寄進が殺到し義家はそれを荘園としました。この義家の人望を恐れた朝廷は、義家の設立した荘園を停止させ、以後の官位の昇進もなくなりました。こうして義家の経済力は傾きはじめ、河内源氏の凋落がはじまることになります。






11世紀中期までは摂関政治がある程度機能していました。

(摂関政治は藤原道長・頼通 の時に全盛を迎えました。宇多天皇 (在887~97) から始まって、後冷泉天皇 (在1045~68) に至るまで天皇の生母は全て藤原北家の娘となり、娘の父や兄や叔父といった立場の者が天皇の外戚ともなる摂政・関白として権勢を奮うことになり、藤原摂関家というものが確立しました。)

その後、外戚に藤原氏を持たない後三条天皇(1068-1072)が即位、天皇親政を行いました。記録荘園券契所を設置して実効的な荘園整理を進める(延久の荘園整理令)など、当時の社会変動に伴う課題、そして藤原摂関家の財政基盤の弱体化をはかりました。
そして退位し院院という境遇でありながら、ことの推移を見張っている為に政治の実権は手放さないように、諮りました。

すでに藤原氏の娘を生母に持つ貞仁親王(後の白河天皇 )が皇太子に立てられていました。1072年、後三条天皇は突如として白河天皇(在1072~86)に譲位、と同時に皇太子に、藤原氏の血筋とならない実仁親王を立てました。そして更に実仁親王の皇太子にも、藤原氏の血筋とならない輔仁親王を立てました。

1073年、突如後三条院は崩御。

1086年、後三条院との約束を全て反故にし、自分の子となる堀河天皇(在1086~1107 をわずか8才で即位させました。白河院政がはじまります。

摂政となったのは、藤原師実(もろざね)でしたが、彼には上皇と対立して摂関政治を行う意図も力もなかった為、朝政の実権は白河院が握ることになりました。

1094年に師実が関白の地位(天皇が幼年の時は摂政、成人すると関白という役職になる)を子の師通(もろみち)に譲り、堀河天皇と結んで朝政にあたるようになると、院と天皇・摂関家の対立が現れるようになりました。

しかし 1099年、藤原師通は急死し、1107年には堀河天皇も崩御し、わずか5才の鳥羽天皇(在1107~23)が即位し、白河院の発言権は、ますます増大することになりました。

鳥羽天皇は、17才の時に妃・璋子との間に皇子の誕生をみましたが、その皇子の父は白河院でした。この皇子が後の崇徳天皇となるのですが、鳥羽天皇は崇徳を「叔父子」と呼んで毛嫌いすることになります。
更に1123年には白河院に強要されて、4才の崇徳天皇 (在1123~41) に譲位させられてしまいました。こうしたことが後の保元の乱(1156年)の遠因となります。






白河院政の特色の1つとして、後三条天皇の政策であった「荘園整理令」の継承がありました。これによって藤原摂関家は更に大打撃をうけることになります。

「意の如くならざるもの 加茂の水 双六の賽 山法師」と豪語した白河院。山法師とは、延暦寺や園城寺・興福寺などの武装した僧。一般に「僧兵」と呼ばれるもので、彼らはしばしば強訴と称して大衆で上洛し朝廷の意志決定を大きく左右することになりました。こうした僧兵の存在は、朝廷にもこれに対抗できるだけの軍事力を求めさせることになりました。白河院は、院政の開始と同時に「院北面」を設立しました。これは院の身辺警護を目的とした集団で院御所の北面の詰所にいたことからついた呼び方ですが、北面の武士とよばれます。やがてそれは武的要素を強く持つ者による組織として確立され院による武士団組織の拠点となりました。

藤原摂関家の力を削ぐことに余念のない白河院は、制法にかかわらぬ人材の起用を盛んに行い (ようするに気に入った者を起用する)従来の社会的身分秩序は崩されていき、藤原氏の中では傍流であった藤原閑院流がめざましい進出を遂げることになります。

そして藤原摂関家がその爪牙として清和源氏を用いたように村上源氏、そして桓武平氏を起用することになりました。

1097年、平維衡の曾孫平正盛 (まさもり) は、21才で崩じてしまった白河院皇女てい子内親王の菩提寺六条院に、伊賀の荘園を寄進しました。これをきっかけに平正盛は白河院に目をかけられるようになり平氏の興隆が始まることになります。

1107年に康和の乱(義家の二男の義親は父譲りの剛勇で知られ、対馬守に任じられて九州に赴任していたが、人民を殺し、略奪を行っているとの訴えが起こされ、追討された。)が起こり、加速度的に清和源氏の勢力は後退。

白河天皇に続く鳥羽上皇も、白河天皇以上の専制を展開した。伊勢平氏を実行部隊として日宋貿易に力を入れたり、荘園公領制の進展に伴って各地の荘園を集積したりするなど、経済的な支配力も強めていった。

12世紀に入ると、有力貴族などが特定の国の租税収取権を保有する知行国制がひろく実施されるようになった。知行国制は、荘園公領制の進展と軌を一にしたものであり、経済的利得権が権門勢家へ集中していったことを表しています。

1129年、長く専権を奮ってきた白河院が没しました。崇徳天皇はまだ11才であった為、鳥羽院政が開始されることになります。鳥羽院は白河院に引き続き、平忠盛を重用することになります。

1141年、鳥羽法皇は崇徳天皇を退位させ、美福門院との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた。近衛天皇。

1155年、鳥羽院に溺愛された近衛天皇(在1141~55)が、わずか17才で没しました。近衛天皇に子はなく、誰が皇位を継承するのかが注目されることになりました。

皇位継承の第一候補は、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王。ところが崇徳を叔父子として忌み嫌う鳥羽院は、崇徳の血統にだけは皇位を継承させたくない。そこで、崇徳の弟・雅仁親王の子で、鳥羽院の寵妃・美福門院の養子になっていた
守仁親王(後の二条天皇)の即位を図りましたが、父を差し置いて皇位につくわけにはいかず、その前提として雅仁親王が即位することになりました。後白河天皇(在1155~1158)です。皇位の可能性はまったくないと考えられており、日夜白拍子を招いて流行歌の今様ばかり歌っているような人物でした。

崇徳上皇の憤懣は更に積もり、鳥羽・後白河と崇徳との間には、不穏な空気が漂うことになりました。

更に藤原忠通は関白に再任されるが、頼長は内覧を解任されたために憤慨して宇治に引き籠った。忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。

1156年5月、鳥羽院は重病に陥りました。鳥羽院に万一のことがあれば、後白河天皇には権威が不足しているだけに不満分子を抑えることは難しい。そこで鳥羽院・後白川天皇側は、鳥羽院存命中から防御体制を固めていきました。

源義朝・源義康(足利氏の祖)などの有力在京武士に内裏などの警護を命じ北面の武士たる平清盛らには、院御所などの警備を命じました。7月2日に鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇の最後の対面も拒否し、京都市中には厳戒体制をしき、在京する摂関家家人の追捕など、次々と先手を打って、崇徳上皇・藤原忠実・藤原頼長らを抑圧・挑発していきました。

こうして追い詰められた上皇方は、準備不足のまま挙兵する破目に追いこまれました。有力武士のほとんどは後白河側におさえられてしまい、崇徳上皇・忠実・頼長側についた武士は、従来からの摂関家の私兵でもあった源為義や平忠正といった、少数にすぎませんでした。

崇徳上皇は讃岐に配流とされ、上皇方についた武士はほとんど死刑とされました。保元の乱の結果、摂関家の権威と権力は、決定的に低落することになりました。


保元の乱の後、後白河天皇による親政が開始されました。といっても、その実権を握っていたのは第一の側近・信西でした。

1158年、後白河は「儀式や作法に縛られずに自由に今様を歌いつづけたい」との理由で、子の守仁親王に譲位しました。二条天皇(在1158~1165)となります。こうして後白河院政が開始されることになりましたが、信西による側近政治という形には変わりはありませんでした。


もともと中継ぎという立場であった後白河院には、権威が不足しているだけに、天皇親政への傾向を顕わしがちであった二条天皇との間には微妙な空気が流れることになりました。

更に、信西の専横を快いものと思わない藤原経宗(つねむね)藤原惟方(これかた)などといった天皇近臣が頭角をあらわしてき、院近臣内部でも、後白河院の寵愛を受けた藤原信頼(のぶより)が勢力を伸ばしてきました。学識者としての対立感情からか「日本一の学者」と称えられた信頼を信西は毛嫌いし、ことあるごとに後白河院に信頼の信用しがたいことを説きますが、これはかえって信頼の対立感情をあおる結果となりました。

更に信西の反対で任官の望みを断たれた信頼は、ついに武力に訴えて信西を除こうと考えるようになり、先に信西に面目を失わされていた源義朝と結ぶことになり、藤原経宗・藤原惟方もこの連合に加わることになりました。

1159年、保元の乱の3年前、平忠盛は没しました。忠盛が固めた平氏の基礎は子の清盛によって、大きく開花していくことになります。

1159年12月4日、平清盛はわずかの供のみを連れて、熊野参詣に出発しました。この情報を得た反信西方は12月9日夜、後白河院の御所・三条殿を急襲しました。いち早く変事を察した信西は、すでに京を脱出していましたが追っ手をかけられ、宇治のあたりで発見され、殺されました。(平治の乱)

信頼方は、続けて二条天皇・後白河院を幽閉。

清盛が紀伊国に入った頃、急報が届きました。紀伊・伊勢は、もともと平氏の勢力の強いところ。わずかの供しか連れていなかった清盛一行は、たちまち百余騎の兵に膨れ上がりました。

12月17日、清盛は信頼に臣下の礼をとり、無事京の六波羅の館に戻りました。この時点で平氏軍は五百騎を越え、対する源氏軍は三百騎にすぎませんでした。

清盛は、藤原経宗・藤原惟方に密使を送りました。12月25日、二条大宮に火の手があがり、源氏方がこれに注意をそらされている隙に、藤原経宗・藤原惟方は二条天皇・後白河院を牛車に乗せ、六波羅の清盛邸に逃げ込みました。

戦略・戦術、全てにおいて、清盛は源氏方を圧倒しました。義朝軍からは離反者が続出し、起死回生を図った六波羅での決戦でも惨敗し勝敗は決しました。信頼は捕らえられて斬首。義平も京に潜伏していたところを発見され斬首。義朝は東国に逃れようとしましたが、尾張で郎党に裏切られ殺されました。
生け捕りとなった義朝の三男で、13才の頼朝も、斬首とされるところでしたが、清盛の義母・池禅尼の命乞いにより助命され、伊豆配流とされます。




平治の乱の後、後白河院と二条天皇 (在1158~1165) の対立は激化することになり、都における最も有力な武士である清盛の存在は、ますます重要なものとなりました。

1160年「政治の実権は上皇でなく天皇がとるべき」として、藤原経宗(つねむね )・惟方(これかた)による上皇軟禁事件が起こりました。後白河院は涙ながらに清盛に自分の窮状を訴え、経宗・惟方を捕らえるように命じました。清盛は2人を捕らえ、2人は免官の上流罪となりました。

清盛は6月には公卿となり、8月には参議となり、めざましい昇進を遂げた上、1161年には検非違使別当(けびいしべっとう)に任じられて、京の治安維持の責任者となりました。しかし清盛は、必ずしも上皇方のみには与せず、天皇側とも良好な関係を保つようにこころがけていました。

1161年、清盛の妻・時子(後の二位尼(にいのあま)、安徳天皇を抱いて壇ノ浦に入水)の妹、滋子(後の建春門院)が、後白河院の皇子(後の高倉天皇)を産みました。

1162年には院近臣である源資賢(すけかた)や平時忠らによる天皇呪詛事件が発覚し、資賢や時忠は流罪とされる。

1165年、二条天皇は 23才の若さで没し、死去直前に、2才になる六条天皇に譲位し、後白河院による政治主導を妨げる最後の手を打ちましたが、実権は後白河の手中に移ることになり、院と天皇の対立も解消することになります。

後白河院の企図する所は、六条天皇を退位させて、寵愛する皇子・憲仁(のりひと・高倉天皇)を即位させることにありました。

1166年、憲仁親王が六条天皇の皇太子に定めらる。
1167年2月、清盛は 50才にして律令制度上、天皇を補佐する最高の地位である太政大臣に任命される。これは藤原氏以外の人としては、はじめてのことであり、無論武門出身ではじめてのことになります。しかし、突然清盛は病に倒れ、症状はきわめて重く、11日には時子と共に出家するに至りました。

報せを受けた後白河院は、急遽熊野参詣を切上げ帰洛すると、六波羅の清盛邸を訪ね、ただちに4才の六条天皇から8才の憲仁親王への譲位を決定しました。こうして高倉天皇(在1168~80)が即位することになると、平時忠をはじめ、平氏一門の起用・昇進が大々的に行われ、天皇・院周辺は平氏一門で固める体制が作られることになりました。

ところが清盛は奇跡的に回復し、5月には病気を理由に太政大臣は退き、福原(神戸)に隠居し、日宋貿易に専念することになります。あえて距離を置くことによって、日常的な衝突、ひいては全面衝突を回避するという手段をとったものと思われます。

1171年、清盛と時子の娘・徳子(後の建礼門院)が、高倉天皇に入内しました。そして徳子と高倉天皇の間に産まれることになるのが、安徳天皇となります。






厳島は古くから海賊達から神聖視されていた神の島(宮島)でした。海上交通と日宋貿易に着目していた清盛は、平治の乱の終息した翌年の1160年8月、西国武士の統合の象徴としてはじめて厳島神社に詣で、これを平家の氏神としました。
清盛は瀬戸内海の航路を整備すると共に、海賊達をその傘下に組み入れ、強力な平氏水軍を組織していくことになります。また清盛は、隠居した先の福原を日宋貿易の拠点とすることを考え、福原は急速に整備されていくことになります。1170年には、はじめて宋船が福原にまで来航することになります。

日本は、唐・新羅・渤海の滅亡などといった東アジアの大混乱を回避する為、事実上の鎖国政策をとっていました。894年に遣唐使が廃止されて以来、院や天皇が異人と対面することは、ケガレとなるので禁忌とされていましたが、清盛の招きを受けた後白河は、この禁忌を破って福原にまで赴き、宋人と対面しました。

清盛や後白河のこういった行動は、大きな批判を浴びることとなりますが、この点では協調しあった彼らにより、瀬戸内の海上航路は整備され、日宋貿易は軌道に乗っていくことになります。

平氏と伝統的貴族との対立が深刻になります。

後白河院は相次いで自分の幼い皇子を高倉天皇の養子とする工作を企てます。清盛にしてみれば、高倉天皇こそが王家との婚戚関係を保持しうる掌中の珠であって、皇子もなく譲位してしまっては、徳子の存在は無意味なものとなる。
後白河と清盛との関係は、一触即発のものとなりました。

1177年3月、当時院第一の近臣と目されていた西光 (さいこう・藤原師光) の子、師経(もろつね)が白山神社領の僧と衝突し、寺を焼き払うという事件が起こりました。白山神社は本社にあたる日吉神社に訴え、その本寺・延暦寺は強訴を起こしました。後白河院は強訴に対する防御を清盛に命じました。

僧兵の恐ろしさを知っている清盛は延暦寺の強訴に対しては消極的でした。ましてや今回は対立する院近臣が原因の強訴。結局この強訴により、大内裏は焼失し、大極殿も失われるという惨状となりました。

後白河院は、延暦寺に対する対立姿勢をあらわにすると、貴族の反対も無視して天台座主・明雲(みょううん)を解任し、所領没収の上、伊豆配流という、かつてない強硬策に出ました。これに対して衆徒は再度蜂起すると、近江国粟津で、流刑途上の明雲を実力で奪還してしまいました。

これに怒り狂った後白河は、これを謀反として近江・美濃・越前の武士に対して、延暦寺攻撃を命令し、清盛に対しても兵を率いて攻撃に加わるよう命令しました。

いかに最大の実力者である清盛といえども、清盛が自由に行使できる武力というのは、伊勢・伊賀・瀬戸内などの限られた家人だけであって、地方の諸国において組織されていた多くの武士を、自由に招集することはできませんでした。
しかし今回の場合、後白河に反抗することは、諸国の武士を敵にまわしかねない、加わらざるをえなくなったが、、、

京都東山の山麓に鹿ヶ谷(ししがだに)という場所があり、その一角の法勝寺執行・俊寛 しゅんかん)の山荘にて、時ならぬ賑やかな宴が行われていました。その場にいたのは、後白河院と藤原成親(なりちか)や、西光といった院近臣。

摂津源氏の多田行綱(ただゆきつな)は、鹿ヶ谷の山荘で平氏打倒の謀議がなされていることを密告。
この情報を得た清盛は、ただちに行動を起こすと西光を捕らえ斬首。藤原成親は重盛の義兄であることから、配流とされましたが、2度目の敵対行動に清盛の怒りはおさまらず、配流先で崖から突き落とされ、先端をとがらせた木に串刺しにするという方法で殺されました。
 
後白河院は「知らぬ存ぜぬ」を押し通し、清盛もさすがに後白河にはこれ以上追求の手を伸ばすことはできませんでした。

鹿ヶ谷陰謀事件は、今回の一連の事態の原因と張本人であった院近臣を一掃し、延暦寺攻撃など問題にもならなくなり、捨て置きとされました。そして後白河院の権力は目に見えて後退することになり、高倉天皇を擁した清盛の発言権は、急速に増大し、後白河院を圧倒することとなりました。

1178年11月、平徳子は待ちに待った皇子を出産し、盛大な祝福を受けました。この言仁親 (ときひと)はただちに皇太子に立てられました。


1179年6月、藤原基実の後家・盛子が、基実と同じ 24才の若さで没しました。摂関家領を事実上平氏の支配下に置くことを可能にしてきた盛子の死に対し、清盛は摂関家領を高倉天皇に献上して、平氏にとっての大きな経済基盤を
防御しようと考えました。ところがなんと、この摂関家領は後白河に奪われてしまうことになります。

7月末には、清盛の嫡男・重盛が 42才で没しました。重盛が長く知行国主を勤めてきた越前を、重盛の子息・維盛(これもり)から奪い取り、院近臣・藤原光能(みつのり)、季能・(すえよし)に与えます。

10月には、欠員を生じていた権中納言に、関白・藤原基房の子で、わずか 8才の師家(もろいえ)が補任され、既に20才を迎えていた基実の遺児、基通(もとみち)が選に漏れたのでした。そして後白河は、基通に代わり、師家を摂関家の嫡流としました。

相次ぐ後白河の仕打ちに憤怒を増幅させていた清盛は、これをきっかけに、遂に行動を起こすことになります。

1179年11月17日、清盛は数千騎の軍勢を率いて福原から入京し、八条殿に入りました。基房と師家は清盛によりただちに解官され、代わって基通が、関白・内大臣・氏長者に任命されました。

18日には、基房は大宰府配流となりました。ここに至り、摂関家の権威は地に堕ちました。

清盛のあまりに強硬な姿勢に仰天した後白河は、今後政務に介入しないことを申し入れ、弁明に努めました。しかし後白河を信用しない清盛は徹底的に破砕する手に出て、後白河院が、院御所である法住寺殿から鳥羽殿へと幽閉されることになり、後白河は外部との接触を一切遮断されました。院近臣の多くは解官・配流にされ、北面の武士や近習たちも相次いで処刑されました。

後白河に対するたまりにたまった憎悪を爆発させた清盛は、事態が落ちつくと、政務を高倉天皇・藤原基通・平宗盛に委ね、ただちに福原に帰りました。清盛には軍事独裁を行うつもりはまだありませんでした。

政変から10日ほどたった11月25日、高倉天皇・言仁親王の王権に敵対しうる唯一の可能性のあった以仁王(もちひとおう)の所領が没収されました。

1180年2月、高倉天皇は3才の言仁親王に譲位しました。安徳天皇(在1180~85)の即位となります。高倉新上皇は、退位後初の社参として、清盛の意向に従って厳島神社に詣でることになりました。

4月22日、安徳天皇の即位式が行われました。しかしその間に以仁王の密命を受けた源行家(ゆきいえ)が、密かに全国を駆け巡っていました。

やがて「以仁王が平氏打倒を企てている」という情報が清盛の耳に入りました。
5月16日、以仁王が園城寺に匿われていることが明らかとなり、園城寺は以仁王の引渡しを拒み、近江源氏や興福寺が連携をとって蜂起する、といった噂も流れることになりました。

これを見た平氏一門は、園城寺攻撃を決定。討伐部隊の大将の一人に選ばれたのは、京に力を残す唯一の源氏勢力で
清盛とも良好な関係にあった、摂津源氏の源頼政(よりまさ)でした。実は頼政は早くから以仁王と通じており、以仁王追討の令を受けると、自宅に火をかけ、反旗を翻しました。

更に延暦寺・興福寺も蜂起。ところが延暦寺は、座主・明雲の工作により、多数派が平氏支持にまわり、園城寺を攻めようとしました。園城寺内でも内紛が起こり、以仁王と頼政は、園城寺を出て奈良の興福寺へ逃れようとしました。

ところが一行は宇治・平等院あたりで平氏軍に追いつかれ全滅。以仁王も殺され、挙兵計画は頓挫したかに見えました。

以仁王の蜂起自体は短期間のうちに鎮圧されたが、その挙兵に、権門寺社を含めた広範な連携が見られたことは清盛にとって重大な脅威となりました。

権門寺社が広く分布し、また囲まれている平安京は極めて危険であると、清盛は福原への遷都を考えはじめ、反平氏となる動きを厳しく取り締まるよう命令を下すことになります。しかしこのことが、源頼朝の挙兵を招くことになりました。

6月2日、福原遷都が実行されることになりました。

8月に入ると伊豆に配流されていた源頼朝が挙兵しました。頼朝は以仁王の令旨に動かされて挙兵した訳ではなく以仁王の乱の結果の、平氏による取り締まりの強化に身の危険を覚えた頼朝が衛の為に起こした挙兵でした。

関東に入ろうとした頼朝は、石橋山の戦いで完敗し、海路安房へと逃れました。しかし勢力を回復した頼朝は、房総半島から南関東へと勢力を広げ、10月には鎌倉に入ってここを拠点としました。反乱の動きは各地に広がり甲斐源氏、そして信濃では木曽義仲(きそよしなか)が挙兵することになります。

反乱の動きは東国に留まらず、九州や畿内近国においても発生するようになりました。頼朝討伐を目的として派遣された平維盛らの軍が富士川の戦いにおいて、屈辱的な大敗を喫することになりました。

全国の情勢は平氏にとって一段と悪化することになり、ここに至り普段は物静かな平宗盛が、清盛に還都(かんと・都を平安京に戻す)を求めて激論に及びました。11月下旬、遂に清盛は還都を決定することになります。

その間にも反乱の火の手は広がりを続け、清盛は還都と反乱対策に忙殺されることになります。反乱は近江にまで及ぶことになり、園城寺を含む近江の反乱は激化することになります。

清盛は平知盛(とものり・清盛の四男)・平資盛(すけもり・重盛の次男)らを大将軍とし、富士川の合戦の轍を踏まないよう、精鋭部隊を組織して近江に向わせ、近江の反乱を鎮圧していくことになります。

還都の頃、病弱であった高倉院は、既に余命いくばくもない状況にありました。
「後白河院の幽閉を解除し、院政を復活させるべきである」という強い声に、清盛は後白河の幽閉を解除しました。

最大の後白河支持勢力であった園城寺焼き討ちを実行しました。

「前関白・基房の流刑の解除」という強い声にあわせて、基房の帰京を許しましたが、同時に平重衡 (しげひら・清盛の五男)を南都(奈良)に向わせ、東大寺・興福寺をはじめ、南都寺院を焼き討ちにし、壊滅させてしまいました。

園城寺、ついで南都を壊滅させた清盛は、1181年の2月までには、近江・美濃を平定し、1183年7月に木曽義仲が北陸から進撃してくるまでは、畿内は一応の安定を見ることになります。

更に清盛は奥州の藤原秀衡(ひでひら)、越後の城助長 (じょう・すけなが)らに対し、頼朝の追討を命じました。
地方の大豪族を追討使として国家的に組織して、反乱に対抗しようとしました。

しかし1月14日、高倉院が 21才で崩御。
2月22日、清盛は頭痛を発症すると高熱に苦しめられることになり、発熱からわずか一週間後、64才で没する。

清盛という強大な指導者を失った平氏一門は、堅い団結でこの後4年持ちこたえます。
しかし1185年、一門の多くは安徳天皇と共に壇ノ浦に消えることとなりました。







文化・宗教史 [編集]

平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていた。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられている。

桓武期には従来の日本に見られない中国仏教(天台宗、密教)が最澄、空海によって伝来され、以降の日本仏教の方向性を大きく規定づけることとなった(平安仏教)。こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいった。

嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開いた。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化という。

唐風化の波が沈静化すると、ふたたび日本的な要素が文化の前面へと現れてきた。これが、平安中期ごろの国風文化である。特徴としては、平仮名・片仮名の発明で日本語の表記が容易になったことによる、源氏物語や枕草子に代表される和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造等の和様建築の登場などがある。

また、平安中期は、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなった。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍した。

平安末期になると歴史物語・軍記物語などの時代を顧みる文学が芽生えた。天台仏教・山岳仏教が日本各地へ広がり、豊後国東半島(富貴寺大堂など)や北陸(平泉寺など)などで動きが顕著であり、その他の地域でも山陰の三仏寺投入堂などがある。当時、民衆の間に今様という歌謡が流行し、後白河上皇により今様を集成した『梁塵秘抄』が編まれた。

土佐光起筆『源氏物語画帖』。
覚猷(鳥羽僧正)筆と伝えられ、人々の様子を愛嬌のある、活き活きとした姿で描いた鳥獣人物戯画もこの時代の作品である。



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