スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平安時代 ①

平安時代は、794年に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指します。

平安前期は、奈良時代からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきます。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括する、王朝国家体制。古代から中世への過渡期と理解されています。

王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきます。

国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力です。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。

12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。






桓武天皇(781年~806年)以下数代においては、天皇が直接に政治を行う天皇親政の時代だった。政治を司る太政官の筆頭官も親王らが占めていた。この時期は、律令制の再建へ積極的な取り組みがなされ、形骸化した律令官職に代わって令外官(律令の令制に規定のない新設の官職。現実的な政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれた)などが置かれた。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍した。

806年 桓武天皇崩御、皇太子が皇位につき平城天皇となる。平城天皇は桓武に劣らぬ積極的な改革を遂行した。

807年 天皇の異母弟伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれる

809年4月 平城天皇は発病し、病を早良親王や伊予親王の亡霊によるものと考え、禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、譲位して神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の子の高岳親王がなった。

810年3月、嵯峨天皇は蔵人所を設置し、6月には観察使を廃止して参議を復活した。平城上皇がこれを怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。
平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。

810年9月6日平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。嵯峨天皇にとって思いがけない出来事だったが、ひとまずこれに従うとして坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上らを造宮使に任命する。造宮使として嵯峨天皇に信任されている人々を送り込み牽制しようとしたと考えられる。遷都のことに人心は大いに動揺した。

9月10日、嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。

嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵を決断をする。中納言藤原葛野麻呂ら群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。

平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。この日の夜に仲成は射殺された。平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。
9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。

嵯峨天皇治世初期は、太政官筆頭だった藤原園人の主導のもと、百姓撫民(貧民救済)そして権門(有力貴族・寺社)抑制の政策がとられた。これは、律令の背景思想だった儒教に基づく政策であった。
園人は63歳で薨去。嵯峨天皇はその死を非常に惜しみ、左大臣正一位を贈った。空海も園人への追悼の書を記している。

次に政権を握った藤原冬嗣は一変して墾田開発の促進を政策方針とした。律令制の根幹は人別課税だったが、冬嗣は土地課税を重視し、かつ権門有利を志向した。
冬嗣は政界での活躍の他、藤原氏の長として一族をまとめることに心を砕き、子弟の教育機関である勧学院の建立、氏寺の興福寺への南円堂の建立、光明皇后の発願で創立された施薬院の復興を行った。 また多くの書物の編纂にも従事し、文武を兼ね備えた多方面で活躍、円満な人格者であったとされる。

820年代から多数設定され始めた勅旨田(天皇の勅旨により開発された田地であり、皇室経済の財源に充てられた)や同時期に大宰府管内で施行された公営田(国家直営の田地)も、冬嗣路線に則ったものとされている。冬嗣は嵯峨天皇の蔵人頭として活躍し、それを足掛かりとして台頭した。また、嵯峨天皇治世期には、各種法令の集大成である弘仁格式が編纂・施行された。

冬嗣の子、藤原良房も冬嗣の路線を継承し、開墾奨励政策をとった。当時、課税の対象だった百姓らの逃亡・浮浪が著しく、租税収入に危機が迫っていた。冬嗣・良房は墾田開発を促進し、土地課税に転換することで状況に対応しようとしたのである。
良房は、政治権力の集中化も進めていき、そうした中で応天門の変(866年)が発生した。この事件は、藤原氏による他氏排斥と理解されることが多い。良房執政期を中心とした時期は、政治も安定し、開発奨励政策や貞観格式編纂などの成果により、貞観の治と呼ばれている。




応天門の変

866年5月3日 大内裏(天皇の住まいがあるところ)の中にある「応天門」から火の手があがり全焼してしまう火事が起こりました。天皇が住んでいるところが火事になったんですから、もしこれが放火だったとしたら確実に死刑になるような大罪です。

そういうわけでこの火事は当時の貴族達には大変ショッキングな出来事で、その後スグ全国の神社にお祓いをさせ、また寺には読経(どきょう・お経を読むこと)をさせるほどでした。

「放火か失火か…??」真相が分からないまま数日が過ぎたある日、大納言「伴善男(とものよしお)」が応天門の火事は放火が原因で犯人は左大臣「源信(みなもとのまこと・嵯峨天皇の皇子)」であると告発します。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。もちろん源信は身に覚えがないと無罪を主張します。

この話を知った太政大臣「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」は「無罪を主張する者をむやみに処罰すべきでなく、よくよく調べてから対処なさいますように」と「清和天皇」に訴え、藤原良房の養子である「藤原基経(ふじわらのもとつね)」の働きもあってこの騒動は一旦は収まり、源信に対する取り調べも保留となります。

数ヵ月後、「大納言の伴善男と中庸、雑色の3人が応天門から走り去るのを見た、その直後に門が炎上したと申し出た。」と申し出る者、鷹取が現れました。今まで黙っていたが、子どもが善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけられ、話す気になったと」

事件の対応に頭を痛めた弱冠17歳の清和天皇は太政大臣である藤原良房を正式に「摂政(天皇が病気または幼少の時に政治を代行する役)」として任命、事態の収拾を命じます。
そして藤原良房は伴善男への取り調べを開始します。

伴善男の取調中に鷹取の娘が何者かによって殺害されるという新たな事件が発生します。この殺害事件の犯人はスグに逮捕されるのですが、なんと犯人は伴善男の家臣だった。
もちろん犯人は娘の殺害事件の他に応天門事件についても厳しく追及され、そして遂に「伴善男とその息子が応天門に放火した。」と白状します。
そしてこの証言により藤原良房は伴善男を放火犯と断定、土地・財産を全て没収して息子ともども伊豆へと島流しにします。

この事件以後、大和政権時代から有力な貴族であった「大伴氏」の流れを受ける「伴氏」は歴史の表舞台からは消え去ります。

藤原氏にとってはライバルが減る結果となり、藤原良房は人臣初の「摂政」の位を授かりめでたしめでたしって事件でした。

さらにこの事件で一番得をしたのは藤原良房、応天門炎上を利用して強引に善男を犯人に仕立て、その失脚を謀ったと考えてもおかしくない。





良房の養子、藤原基経もまた、良房路線を継承し土地課税重視の政策をとった。基経執政期で特徴的なのが、元慶官田の設置である。それまで中央行政の経費は地方からの調・庸によっていたが、畿内に設定した官田の収益を行政経費に充てることとしたものである。

887年に即位した宇多天皇は、その数年後に基経が死去すると天皇主導の政治を展開するようになります。権門抑制策そして小農民保護策を進めていきました。宇多天皇のもとでは藤原時平と菅原道真の両者が太政官筆頭に立ち、協力しながら宇多天皇を補佐。

宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。所がこれが完全に裏目に出てしまいました。

醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。(901年昌泰の変)






道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903年)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。

さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。
まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。
更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。

これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。

そしてとうとう延長8年(930年)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。

さてこのような騒ぎの中道真はどんどん神格化されていきます。味酒安行が祀った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えられました。そしてやがて都でも道真公を祀ろうとする動きが出て来ます。

最初天慶5年(942年)京都の多治比文子という人が「右近馬場に祠を建てよ」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどうにもならないため、仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立しました。

987年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになり、一条天皇自身1004年に行幸しています。






実権を握った時平は宇多路線を引継ぎ、権門抑制と小農民保護を遂行していきます

902年 班田励行令発布(これが史上最後の班田実施)。また、律令回帰を目指す法令群である延喜格式が編纂された。

時平の死後、弟の藤原忠平が太政官首班となった。忠平は律令回帰路線に否定的であり、土地課税路線を推進していった。このころ、有力百姓層(富豪層)へ土地経営と納税を請け負わせる名体制もしくは負名体制が開始、この時期が律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制へ移行する転換期だったと考えられている。

忠平期は、また摂関政治の成立期。それ以前の藤原良房の時から藤原北家が摂政・関白に就いて執政してきたが、発展段階。忠平以降は朝政の中心としての摂関が官職として確立、忠平の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定した。
ただし、摂関政治においても摂関が全ての決定権を握っていたのではなく、議政官が衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。

9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始めた。群盗の活動は9世紀を通じて活発化していき、朝廷は群盗鎮圧のために東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司(地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙(国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画)に軍事力の運用権限を担わせる政策をとっていった。

この政策が結実したのが9世紀末~10世紀初頭で、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。
彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者)の確執の調停者として地方に勢力を扶植していった。

関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。
940年、将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。将門はいずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死。首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。(平将門の乱)

時を同じくして、瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。
936年、自ら海賊の親玉となり日振島(愛媛県宇和島市)にて反乱を起こす。各地で官軍を撃破するが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて、次第に追い詰められ、941年2月藤原国春に破れ九州大宰府に敗走。その後、日振島に脱出するも、941年6月20日、伊予国(愛媛県)警護の橘遠保(たちばなのとおやす)により討ち取られる。(藤原純友の乱)

これらの乱は年号から承平天慶の乱ともいいます。朝廷の側に立ち、鎮圧に勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当なる武芸の家系と認識された。「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、国衙によって公認された者が武士へと成長していった。

946年 村上天皇即位。しばらくは藤原忠平を関白に置いていたが、949年に忠平が没すると、以後、摂関は置かず天皇親政の形式をとった。しかし、実際に政務をリードしたのは太政官筆頭である左大臣藤原実頼だった。

10世紀半ばから後期にかけて、ある官職に伴う権限義務を特定の家系へ請け負わせる官司請負制が中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。

すなわち技能官人。紀伝道(文章道)の菅原氏・大江氏・藤原北家日野流、明経道の中原氏・清原氏、明法道の坂上氏・中原氏、算道の小槻氏、医道の和気氏・丹波氏、暦道の賀茂氏、天文道及び陰陽道の安倍氏などがこれに当たる。彼らはその技能を家学として一族内部において独占化し、それまで様々な氏族出身者が占めていた博士職などの専門職から他氏を排除して世襲化することに成功した。
また、それ以外の事務系の実務官僚の世界でも、公文書や家記などによって代々蓄積された職務に関する知識や先例を占めることで、清原氏・中原氏が太政官の局務を、小槻氏が同じく太政官の官務を占め官職を世襲化した。

朝廷の財政は、地方からの収入によっていたが、特に地方政治においては、国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ。行政権が委任されたのは現地赴任した国司の筆頭者である受領。受領は、大きな権限を背景として富豪層からの徴税によって巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開したとされる。
その現れが10世紀後期~11世紀中期に頻発した国司苛政上訴(郡司・田堵・負名・百姓階層が地方官である国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴えた行為。上京し、大内裏の陽明門(内裏の公門とされていた)前で国司の苛政・非法を太政官へ訴えるという形態が通例であった。)

受領は行政権を与えられる一方で、勘解由使(地方行政を監査するために設置された令外官)や受領考過定など監査制度の制約も受けていた。
いずれにせよ、受領は名田請負契約などを通じて富豪層を育成する存在であるとともに、富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあり、また富豪層は受領との名田請負契約に基づいて巨富を築くと同時に中央官界とも直接結びついて受領を牽制するなど、受領の統制を超えて権益拡大を図る存在でもあった。

また、荘園が拡大し始めたのもこの時期である。10世紀前期に従来の租税収取体系が変質したことに伴い、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成した。このように荘園が次第に発達していった。権門層は、荘園を国衙に収公されないよう太政官、民部省や国衙の免許を獲得し、前者を官省符荘といい後者を国免荘という。

こうした動きに対し、984年に即位した花山天皇は、権門抑制を目的として、荘園整理令などの諸政策を発布した。この花山新制はかなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに退位に追い込まれた。

とはいえ、その後の摂関政治は権門優遇策をとった訳ではない。摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾、そして権門の荘園整理にどう取り組むかという点にあった。

摂関政治による諸課題への取り組みに成果が見られ始めたのが、11世紀前期~中期にかけての時期である。この期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになったり、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた。このため、10世紀前期に始まった王朝国家体制はより中世的な形態へ移行した。

11世紀前期には、女真族が北部九州に来襲する事変が発生した(1019年、刀伊の入寇)。





スポンサーサイト

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2010/06/14 (Mon) 21:50 | # | | 編集

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。