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奈良時代

奈良時代は、710年に元明天皇が平城京に都を遷してから、794年に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。(以外に短い)

奈良の地に都(平城京)が置かれたことから奈良時代といいます。ただし、740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に、それぞれ短期間ですが宮都を遷したことがあります。

平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たしました。
藤原不比等は、大化の改新で活躍した中臣鎌足の子、天智天皇に賜った藤原の姓を名乗りました。

平城京は、中国の都長安(今のシーアン)を模した都を造営し、役人が住民の大半を占める政治都市でした。
「あをによし 奈良の都は さく花の にほふがごとく 今さかりなり」(万葉集)

平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から検討し変更されるなど、試行錯誤しながら、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権国家を目指した時代でした。

この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租・庸・調と軍役を課しました。




日本の租庸調制は、中国の制度を元としています。

租 [均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務。]
庸 [年間20日の労役の義務があり、それを免れるために収める税。労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めること]
調 [調は、絹2丈と綿3両を収めること]

日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入し、貨幣やその土地の特産物などを収めたもの、つまり税です。




遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入し、全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えました。
『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場。
この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えませんでした。

政治的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できるそうです。






710年 元明天皇が平城京に都を移す。 今年は2010年、平城遷都1300年祭で奈良は賑っています。
712年 古事記ができる。稗田阿礼、太安万侶らによる日本最古の歴史書。




『古事記』には太安万侶の手による序文がつけられていますが、それによると第40代天武天皇が『古事記』編纂を思いつき、第43代元明天皇の時代、712年にやっと完成したとされています。
序文の天武天皇の言葉に、「帝紀(天皇家の系譜)・旧辞(古い物語や出来事)をよく調べて正し、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。」とあります。

『古事記』は上中下の全三巻から成り立っています。
上巻には天地が初めて現れた時から、イザナギとイザナミの国生み・神生み神話。天照大御神と建速須佐之男命の神話。
大国主神の国造り神話と国譲り神話(スサノオ七世孫として誕生した大国主神は、イザナミの死によって中途半端に終わってしまった国造りを、見事成し遂げた神。彼はその運と努力によって、自らの地位を徐々に高め、そしてそれに伴って、出世魚のごとく立派な名前へと改名していき、偉大なる大国主への階段を上っていった。しかし、大国主神が国造りを成した頃を見計らって、天照大御神は「元々私の子が統治する国なのだから返しなさい!」と騒ぎ出す。かくして大国主神は、素直に国を譲り渡し、自らはその代償として得た出雲大社に隠棲する。)

中巻には初代神武天皇から第15代応神天皇まで。神武天皇は「一体どこの地であれば、天下を正しく治めることができるだろうか」と日出ずる処(東)を目標に、一族郎党を率いてはるばる九州からやって来た…ということになっています。その大移動の途中で多くの国津神達を服従させ、最終的に大和国に落ち着き即位したという話が、この神武東征です。

そして下巻は第16代仁徳天皇から第33代推古天皇までの記載があり、大まかには上巻が神の時代、中巻が神と人の時代、下巻が人の時代と分けることができます。

『日本書紀』との比較
『日本書紀』は『古事記』に遅れること8年、720年5月に成立しました。内容としては、神代から第41代持統天皇までの歴史が編年体で記されています。時代的に『古事記』と重なっている部分(神代~第33代推古天皇記)がたくさんありますが、内容は微妙に違っており、『古事記』に比べると全体的に固いです。二書とも歴史書なのですが、古事記』が文学的色合いが強いのに対して、『日本書紀』は余計なものを出来る限り省いた史書の形式をとっています。…もっとも史書とは言っても、その王朝の人間が記しているわけですから客観性に欠け、記紀共どうしても主観的なコトは否めません。






713年 国ごとに「風土記」の編さんを命じる(日本最古の地理書)。

715年 元正天皇即位。

718年 藤原不比等らが「養老律令」をつくる。大宝律令が成立後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修作業を継続。養老律令は、大宝律令と大きな相違点はない。720年、不比等の死により律令撰修はいったん停止となります。






飛鳥、奈良時代に活躍した藤原不比等とは。

11歳の時、父鎌足が死去。壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

697年文武天皇の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てきます。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせ、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となりました。

橘美千代は、宮中で天武・持統・文武・元明・元正・聖武―六代の天皇に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めるなど、後宮を束ねて皇位継承に絶大な影響力を持った女性です。始めは美努王(みぬおう・みのおう)に嫁して葛城王(後の橘諸兄)・佐為王・牟漏女王を生み、美努王が大宰帥として筑紫に赴任した後、藤原不比等の後妻となり、藤原光明子(光明皇后)・多比能を生んだ。藤原不比等による藤原氏の覇権の確立を援けた。
法隆寺に三千代のものと伝えられる「橘夫人厨子」があります。





720年 日本書紀ができる。舎人親王、太安万侶

不比等の死後、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となる。

723年 三世一身の法が出される。 (墾田の奨励のため、墾田私有を認めた法令。灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というもの。

724年 聖武天皇が即位する。

藤原不比等の息子、藤原四兄弟が勢力をのばす。藤原武智麻呂(むちまろ)(藤原南家開祖)・藤原房前(ふささき)(藤原北家開祖)・藤原宇合(うまかい)(藤原式家開祖)・藤原麻呂(まろ)(藤原京家開祖)
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は異母兄弟である。なお、聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに異母姉妹にあたる。それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残しています。

不比等は橘三千代との間の娘(光明子)を皇太子時代の聖武天皇に嫁がせました。

727年 基王を出産。藤原家は安泰と思われました。
728年 基王が夭折。(このことは後に光明子及び聖武天皇を仏教にのめりこんで行かせる原因となります。)
藤原氏は光明子の立后を画策。藤原家は天皇の家系ではなく臣下の家柄なので、彼女の身分も当然夫人でした。
長屋王はこれに強く反対したためか、聖武天皇・藤原氏との対立を深めます。
長屋王は左道で呪詛をかけて聖武天皇をのろい殺そうとしたとの密告により、屋敷を藤原兄弟とその指揮する軍に取り囲まれ、家族ともども自殺。

729年8月10日 光明子の立皇后の詔が出て、光明皇后となる。当時の皇后というのは単なる天皇の妻ではなく、国政上の共同統治者でもあり、天皇亡き時はその後継者になる資格をも持つ地位でした。

聖武天皇には他にも男の子がさずかりますが、いずれも幼少でなくなり、738年(天平10年)、聖武天皇は光明子との間の、皇太子時代にできた女の子、安倍内親王を皇太子に立て、天皇家の血筋が途切れてしまうことは回避。(安倍皇太子は日本史上唯一の女性の皇太子。)しかも、安倍内親王(称徳天皇)は結婚しなかったため、ここで藤原系の皇族の血は途絶えてしまいます。

730年 奈良の興福寺に悲田院・施薬院をもうける。

737年 藤原四兄弟は病死。天然痘の流行のためと思われるが、長屋王のたたりとも噂される。その後四兄弟の子が若かったため、橘諸兄を大納言(のち大臣)に任じ、唐から帰国した玄・吉備真備らを重用して政治改革に着手。

740年9月 四兄弟のうち宇合の息子広嗣は、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、同年末、山背国恭仁に遷都。その後都は摂津の難波・近江の紫香楽と転変するが、結局745年、平城京に還都した。

742年(天平14年)大宰府を廃止し、翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。大宰府とは筑前国(いまの北九州)に置かれた中央の出先機関です。外交使節との交渉や接待などを行いました

東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた。

相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。

743年 国分寺建立の詔を発布。





国分寺建立の詔とは。

詔曰く、私は徳は薄い身であるが、忝なくもこの重任(天皇に即位)を承けた。しかし、未だその成果を得ていないので、寝ても醒めても恥ずかしい思いをしている。いにしえの為政者は皆、国を泰平に導いて災難を除き楽しく暮らしていたのだが、どうすれば良いのだろうか。
近年、稔りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。
【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。
そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするもめである。
これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。
また国僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶20人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を10人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。
毎月8日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。

とくに聖武天皇にとっては、もっとも切実な三つの政治課題があった。その一つは、当時天然痘や赤痢が大流行し、聖武天皇自身も息子を亡くした疫病からの救済である。二つは、気候不順による、凶作・飢饉からの救済と五穀豊穣の祈願である。そして三つは、日本国家存立への威信をかけたアピールであり、これらの政治課題を解決するための拠り所としたと思われる。






743年 墾田永年私財法の詔を発布。

墾田永年私財法が発せられたのは、人口の増加による口分田の不足、荒廃、政府への租の収入が減少という背景があります。722年に百万町歩開墾計画、723年に三世一身法、743年に墾田永年私財法。

・墾田は輸租田であるということ(つまり税を納める必要がある)
・開墾には国司の許可が必要
さらに、身分ごとに私有を認める面積に制限があります。
(これは大仏建立にも関係があるとの説があります。「大仏建立に寄進したものに位階をさずける」ということにし、位階があがればあがるほど、広く土地の開墾ができ、それが自分の土地になるので、大仏建立の資金をださせるためもあったと)

ともあれ、上記の条件を満たすことができるのは貴族や寺社など有力な人物に限られ、荘園発生の基礎となります。。

墾田永年私財法によって開発された私有地は、輸租田ですから当然,国司による検田使や徴税使の干渉を受けます、そこで初期荘園を開発した地方の有力農民(大名田堵・開発領主)たちは,この干渉を排除する=不輸租田にするため、荘園を中央の貴族・寺社に寄進して不輸の権を獲得し、自らは現地を管理する荘官として年貢・公事・夫役を、領主である貴族・寺社に納めました。これがいわゆる寄進地系荘園です。






749年 皇位を皇太子阿倍内親王に譲り、史上最初の男帝の太上天皇となる。阿部内親王は女帝孝謙天皇となります。

751年 現存最古の漢詩集、懐風藻ができる。

752年4月9日 東大寺の大仏開眼供養会を挙行。(743年から、行基らの協力を得て東大寺の大仏造営は始められていました)

754年 鑑真が来日。 唐の高僧、6回目の船出で日本にたどり着く。奈良に唐招提寺を建てる。

756年5月2日 聖武帝崩御。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を集めた。また、たびたび吉野や難波への行幸を行ない、山部赤人・笠金村らに歌を奉らせ、万葉集に11首の歌を残す。新古今集以下の勅撰集には8首入集。

756年 東大寺の宝庫、正倉院ができる。聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り。

この間に光明皇后、孝謙天皇の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭。政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。
755年 橘諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去。

757年3月 聖武太上天皇の遺言により道祖王が立太子されていたが、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王が立太子される。

757年5月 祖父の不比等が着手した養老律令施行。

仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに仲麻呂を殺害し、黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、同年6月、上道斐太都らの密告により露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣豊成も左遷された。(橘奈良麻呂の変)

758年 孝謙天皇が譲位して大炊王が即位、淳仁天皇となる。

淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した。

同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。
759年 新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。本格的な遠征計画が立てられたが、この遠征は孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。

759年 万葉集ができる。日本で最も古い歌集、大伴家持らによって編さんされる。

760年 仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。同年、光明皇太后が逝去。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。

762年 仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。

この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、道鏡への寵愛は更に深まり、763年少僧都(仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職)とした。

孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まる。

764年 危機感を抱いた仲麻呂は、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。
子の辛加知が国司の越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。

仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄は死刑を免れて隠岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。また、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、筑波山知足院中禅寺の開山者となる。

また、仲麻呂の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。

仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。

765年 僧の道鏡は太政大臣禅師となる。
766年 道教は法王となり、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。

称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川や和気清麻呂(称徳天皇の弟)に阻まれた。

770年 称徳天皇が亡くなる。皇太子は白壁王と決定され、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺へ左遷された。

称徳天皇は独身の女帝で後継者はなく、天武天皇の嫡流にあたる皇族がいなかった。白壁王は天智天皇の6子。8歳で父が死亡したため出世は大変遅かったが、井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、白壁王は62歳で即位することとなり、光仁天皇となる。

即位後、井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛する大逆を図ったとして罪し皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。井上内親王は翌年、天皇の同母姉難波内親王を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて二人とも変死した。

773年 藤原乙牟漏と結婚していた山部親王を立てて皇太子とした(のちの桓武天皇)。この背景には山部親王とそれを擁立する藤原百川らの陰謀があったと目される。山部親王は第1王子ながら、生母の出自が身分の低い帰化系氏族であったために立太子は予想されていなかった。

70歳を超えても政務に精励、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。
が、780年には陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおこるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。

781年2月第一皇女能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御。

784年 長岡京遷都。桓武は平城京からの遷都を望み、藤原種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。桓武の命をうけ藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂らとともに長岡を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。

785年旧暦9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も複数にのぼった。

その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王を廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。

794年 平安京への遷都を断行した。平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられている。また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なった。





なんと以外に短い期間の奈良時代は、権力争いのオドロオドロしい時代で、中身が濃いなんてもんじゃない。人を殺しても、権力をにぎり、成敗したと言い張ればいいのです。やられる前にやっちまおう!という、とんでもない時代です。

これでは人間の心はすさみ、仏教が興隆するはずです。仏教はまた奥が深いので、別の機会に調べてみます。

奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化を天平文化と呼びます。
東大寺の造営を管轄する役所である造東大寺司のもとで官営の造仏所が整備され、多数の工人によって仏像製作が分業的に行われました。
一方、都には民間の仏像制作工房、私仏所があり、また僧侶で仏像制作を行う者もでてきました。指導的仏師としては、東大寺大仏の責任者:国中連麻呂、興福寺の十大弟子八部衆制作の将軍万福などが記録に残っています。

東大寺盧舎那仏像に代表される金銅仏のほか、乾漆像や塑像が主流であり、金像銀像、石仏も制作され、専仏、押出仏の制作も盛んで、制作技法が多様でした。





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