飛鳥時代 後半

飛鳥時代、ドロドロした権力争いが続きます。すずあきは若い頃、どうもこの権力争いにうんざりして、歴史が嫌いになったようです。いまは、人間というものの性、男というものはしょうもない、と感じます。あっ、女にも権力が大好きな人もいますね、それから夫が偉いと自分も偉いと勘違いする女も。そういう人は夫が落ちぶれたり、年とって力がなくなったときにはどうするのかな、、、

それはそうと、それでは飛鳥時代の続きです。






628年 推古天皇没する
629年 田村皇子即位し、舒明天皇となる。

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。

推古天皇、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇は後嗣を指名することなく崩御。
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき聖徳太子の家系が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。

蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。舒明天皇である。
蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族たちは朝廷に出仕せず、もっぱら蘇我家に出仕する有り様となった。
大派王(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが蝦夷はこれを拒んだ。

641年 舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位し、皇極天皇となる。

642年、蝦夷とその子の入鹿は自分たちの陵墓の築造のために、天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。

643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした。

643年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇にと望み、そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔だったので、入鹿は巨勢徳太、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。
山背大兄王は舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。
山背大兄王の側近の三輪文屋君は東国へ逃れて再挙することを勧めるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると取り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺した。

この襲撃を聞いた親である蝦夷は激怒したと言う、「お前は何という愚か者か、何時かお前も打たれるぞ」といって警告をしたと言う。
これを機に諸豪族が蘇我から離れて行ったようだ。




神祇を職とする一族の中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は蘇我氏の専横を憎み、蘇我氏打倒の計画を密に進めた。
法興寺の打毬で、中大兄皇子(舒明天皇と皇極天皇の子)の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。
中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める。

同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、宮中で入鹿は暗殺された。
翌6月13日、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船史恵尺がこのうち『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。
(乙巳の変)

古人大兄皇子は入鹿暗殺の時、皇極天皇の側に侍し、暗殺を目撃。蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失う。事件後、皇極天皇のあとを受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、吉備笠垂から「謀反を企てている」という密告を受け、同645年9月12日に中大兄皇子に攻め殺される。実際に謀反を企てていたかどうかは不明。

645年6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。
これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されている。
新たに左右の大臣2人と内臣(うちのおみ)を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。




大化の改新

645年6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

8月、五つの法令が発令された、東国に国司(くにのみこともち)を遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと推定される。

五つの法令
一番目。
東国の、国司を任じ「国家所有公民、大小所領に人衆」、国有の公民と地方の豪族や国造の私民の合わせた全人民の戸籍を作ること、校田、田の面積の調査で国勢調査である。
畿内での実施には抵抗があったのか東国から始められた、要はどれだけの人間の数と、田畑の面積を調べて税の取り分の算出を考えていたのだろう。

二番目。王都を中心に大和六県の整理して、使者を出して造籍、校田を命じた。高市、葛城、十市、山沿いの六県の造籍、校田、の公地、公民を明確にして地方へ波及させる政策である。

三番目。鐘櫃の制を置く、これは下級役人などを、自分の族長や伴造の裁定に不服のある場合直接朝廷に訴えられるもので、尚朝廷に不服のある場合は、鐘をならしその裁定に訴えるもの。直訴をしても咎めないと言う理解のあるもので、民主的で民意を反映させるもの。いわば孝徳天皇の民衆の受け狙いで、人気取りの政策であった。

四番目。男女の法、男女の法と云っても身分差の取り扱いについの規定である。
子供が生まれた場合、どちらに帰属するかについて。良男と良女の子は父につける、良男と卑女の場合は母に付ける、良女と奴婢の場合は父に付ける、厳しい身分制度の中生まれた子は身分の低い方に付けることになっていた。
奴婢、隷民と幾つ者身分の段階があったようだ。

五番目。十師、寺院を統制するために、寺司、法頭を定める。
この時代は少しは寺院もあったが、まだまだ一般的に信仰されていた分けでもなく、儀式、儀礼的な色彩が強く王族の祈願や、豪族の氏寺としてのものが多く、僧を規定する意味での法であった。

五つの法令ですが、まず識字率の極単位少ないと思われる当時、施行、実施は難しいかも知れなく理想的社会を誇示する意味で、改進の意気込みを示すものかも知れない。形式的なもので、次の改進への序段かもしれません。

十二月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。
(遷都は孝徳天皇が強く望んだとされています。決められたと言っても、直ぐに遷都が出来るものではない、年月がかかり、その間は急遽小郡を仮の宮としました。652年に完成する。)

翌年の一月元旦に「改新詔」が発令されました。

〔改新の基本方針〕
(1)公地・公民(豪族が私有していた土地・人民を国家が直接支配する、中央集権)

(2)班田収授法(律令制のもとになった土地制度で、田を人民に分けあたえる法。中国の均田制をもととしたもので、大化の改新後に行われ、大宝律令(701年)で制度的にととのった。6年ごとに戸籍をもとに6歳以上の男女に耕地(口分田)をあたえる。良民の男子は2段(約23a)、女子はその3分の2、家人・私奴婢には良民男女の3分の1があたえられ、死亡すれば国家に返納させた。

(3)国郡制度(全国を国と郡に分ける)

(4)租・庸・調の税制(租は地税、口分田・位田・賜田・功田などの面積に対して課税され、収穫量の約3%の割合、田一段につき稲二束二把(のち一束五把)を納めるもの。
庸は年10日の労役を提供。労役のかわりに布2丈6尺を納める人頭税であった。布のほか、米や塩など地方の産物をあてることもあった。
調は基本的物納租税。諸国の産物(絹・綿・海産物など)を納めたもの。庸とともに都に運ばれ国家の財源となった。

この改新の詔は、のちの律令国家の出発点をなすものであったが、これが実現するには、なお数十年の年月を必要とし、詔は、その後次々と打ち出され、階級、税制、伝達方法、情報伝達、流通、交通整備など、人と田の調査、地方と王都、豪族と王権の枠決め、中央集権と、統制などで、大事な国家の骨格と成す部分が制定されていきます。




652年、かってない大規模な難波宮が完成しますが、翌年に中大兄が突然に、新宮を捨て飛鳥に戻ると言い出します。これには孝徳天皇も驚き、許さなかったのですが、前天皇の宝皇女と、中大兄は孝徳の妃間人皇女(中大兄の妹)や大海皇子まで引き連れて強引に飛鳥に帰ってしまいます。孝徳のその時の驚きは計り知れないが、最愛の妻まで孝徳を裏切って、中大兄や宝皇女に従ったことに強い衝撃を受けたでしょう。
百官人ら主な要人、そして臣下の大半も去り、難波宮に残された孝徳は、心身共に疲れ果てたのか、失意の内に、翌年の10月に亡くなります。孝徳が亡くなって翌年の1月に難波宮は焼失。

655年1月、難波より還った宝皇女(皇極天皇)は再び飛鳥板蓋宮で即位し、斉明天皇となる。日本の歴代の天皇で再度王位に就いた重乍したのは初例。

658年、孝徳天皇の長子である有間皇子(ありまのみこ)は、伯母にあたる斉明天皇を紀伊温湯へ湯治に赴かせ、天皇はじめ皆が飛鳥を留守にしている隙に謀反を企てた、という濡れ衣を中大兄皇子着せられ、無実の罪で処刑された。

658年、阿倍比羅夫を総指揮官として東北遠征、支配地拡大と完全東北制圧を行う。別に蝦夷や隼人が攻めてくる訳でもなかったが、完全な服従、従属が前提条件だった。新潟、秋田、青森、さらに北海道の蝦夷を招きいれ服従させることに成功した。この快挙は、その後の東北政策の坂上田村麻呂までは進展がなかった程である。

そのころ、朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の3つの国が争いをくり返していましたが、659年に百済が新羅に攻めこむと、新羅は、中国の唐に助けをもとめ、唐は新羅に味方して大軍をだし、百済をうちやぶってしまいました。660年、生き残った百済の武将たちは、もういちど国をたてなおすために、日本に応援をたのんできました。

中大兄皇子はこれを承諾。
661年に斉明天皇は九州へ出兵したが邦の津にて急死。
663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗。

このことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
664年、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。
666年には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。

667年、中大兄皇子は天皇に即位しないままに飛鳥から近江に遷都。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれている。

668年、皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

乙巳の変より天智天皇を支え続けていた、功労者鎌足が病に伏し、朝廷としてはその功績を称え、大織冠を藤原氏の姓を賜り、その翌日鎌足死去する。

670年、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。

天智帝には、多くの妃や夫人、女官、采女などが居たが、皇子には恵まれず、有っても母方の血筋が良くなかった。その一人が大友皇子。
天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、671年正月、左大臣、右大臣以外に、太政大臣という重職を設け、自身の皇子である大友皇子に任命した。大友皇子を後継とする意思をみせ始めた。

天智天皇は晩年、皇太弟である大海人皇子の動きに注意していた。その後、天智天皇は病に臥せる。天智は病床に大海を呼び、「おまえに今後を頼もうと思う」とうち明けるが、天智天皇の真意を見抜いた大海人皇子はこれを固辞し、その場で髪を切り、妻(後の持統天皇)子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公にした。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。世の人々はこれを「虎を野に放したようなもの」といったというが、それは天智天皇の崩御の後わずか半年たらずで大海は挙兵しているから、後から人々がもっともらしく語ったのかもしれない。




壬申の乱

672年1月10日、近江宮において天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。天智天皇没後の政情不安の中、673年7月27日に大海人皇子はわずかな従者と共に急遽東国に進発、伊賀、伊勢国を経由して美濃へ。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、本営を置き、不破の道を封鎖、これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。東国からの兵力を集めた大海人皇子は8月3日に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

大友は機先を制されて軍兵の動員に手間取る間に、大海人皇子は東国の大兵力を結集し攻撃。第二隊は大和方面に進出して大伴吹負らの軍と合流し、南大和の箸陵の戦いで大友方を撃破した。大海人皇子の長子である高市皇子率いる第一隊は近江に進撃し、大友軍を打ち破りながら進軍し、大友軍の最後の防衛ラインである瀬田川に至る。
この日は大友皇子自ら出陣し、瀬田川を挟んで両軍最後の決戦が始まる。瀬田川を奪取された大友軍は総崩れとなり、大友もわずかに身を持って逃れたが翌日山崎で自害した。

壬申の乱は大海人皇子の圧倒的勝利に終わった。大海人皇子の勝因は天智天皇の急進改革によって特権を奪われた貴族・地方豪族の不満を上手に吸収し、それらを見方につけた為である。皇位継承争いを大規模な内乱としたのが勝因。
壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大なものとなり、天皇の神格化・律令体制の整備とが急速に進んだ。




672年の末に宮を近江から飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村)に移した。
官人登用の法、甲子の宣(天智天皇によって与えられた氏姓制度)の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年には、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために律令の編纂を開始した。
686年、天武天皇は没し、その皇后の鸕野讚良皇女と皇太子の草壁皇子が律令事業を継承した。服喪があけた後に、草壁が次期天皇に即位する予定だった。
しかし、草壁は689年に急死。天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。

689年には諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。飛鳥浄御原令により、いくつかの重要な事項が本令により定められたとされている。天皇号は天武期において天皇号が制定され、本令により法典に明記された。
飛鳥浄御原令は、急遽施行されたという事情もあり、必ずしも完成された内容ではなかった。そのため、律令の編纂作業はその後も継続。

690年には、本格的な戸籍、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。
692年には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。

701年の大宝律令によって、天武が企図した律令編纂事業が完成することとなった。




大宝律令とは

大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。
刑法にあたる6巻の「律」はほぼ唐律(唐の時代につくられた律)をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省制(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。

また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。

702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。






694年には日本初の本格的都城となる藤原京(飛鳥京の西北部、奈良県橿原市)に都を遷した。

697年 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。文武天皇はこの時15才。
703年 持統天皇は亡くなります。
707年 文武天皇は25才で没し、元明天皇即位する。
708年 武蔵国から銅が献上され、改元し、和同開珎を発行する。

和同開珎は、日本で初めての流通貨幣といわれ、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

政府はさらにその流通をめざしたが、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。政府は、こののちも銅銭の鋳造をつづけ、10世紀の乾元大宝まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造はおこなわれ、これを、皇朝十二銭といいます。
一方で、私鋳銭禁止令が和同開珎鋳造と同じ708年に出されています。役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」の罰が加えられました。



710年 平城京に遷都。






ようやく飛鳥時代が終わり、次は奈良時代、平城京です。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する