飛鳥時代 前半

飛鳥時代は、古墳時代の終末期と重なるが、592年から710年の119年間にかけて、飛鳥(奈良県明日香村)に宮・都が置かれていた時代。
狭義には、593年に聖徳太子が摂政になってから持統天皇694年の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。

この時期には百済から仏教が伝来し、後の推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。
文字も仏教とともに伝わったとされています。

6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。
しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。

645年の大化の改新、672年壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。
天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、701年、大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。

なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。

ざっとこのような流れです。






531年 欽明天皇(神武天皇から数えて第30代天皇)即位する。

535年  屯倉(みやけ)を多く置く。屯倉とは大和政権の支配制度の一つ。直轄地でもあり、直轄地経営の倉庫、直営の労働力でもある。大化の改新で廃止されます。

538年 仏教伝来(公式に史書に記載されている時期として)
百済の聖明王が朝廷に遣いを送ってきました。その一人が怒利斯到契(ぬりしちけい)で、釈迦仏(金銅製)一体、幡蓋(はたきぬがさ、「幡」「蓋」とも仏前に置かれた)、経論数巻を献上しました。

欽明(きんめい)天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下たちに問うと、「大陸の優れた文化であり、西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えたのに対して、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)は「外国の神を受け入れれば、日本古来の「神(国つ神)」が怒る。」という理由から、仏教に反対し、徹底的に排除するべきと主張しました。
そこで天皇は「試しに拝んでみるように」と、仏像や教典を蘇我大臣稲目に授けました。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。この時より向原の家は日本最初の寺となりました。現在、向原の家は飛鳥の向原寺です。




物部氏は有力な軍事氏族。
連、臣は天皇に使える役人、大連(おおむらじ)と、大臣(おおおみ)は古墳時代における大和王権に置かれた最高の役職。天皇の補佐として執政を行い、有力氏族出身者がなります。大連、大臣は、各大王の治世ごとに親任されます。

大連は、雄略天皇(第21代)の時代に大伴室屋と物部目が揃って大連に任じられて以後は大臣とともに常設となったとされます。武烈天皇(第25代)の治世に当たる6世紀前期には大伴金村と物部麁鹿火が大連に任命され、特に継体天皇(第26代)擁立に功があった大伴金村が権勢を振るう時代が続きました。ところが朝鮮半島の経営に失敗した大伴金村が物部尾輿の糾弾によって引退に追い込まれると、物部氏が単独の大連の地位を占めることになります。




蘇我氏は、物部氏や大伴氏など、由緒正しい他の飛鳥の大豪族とは違って、氏素性がはっきりしない。由緒正しき家計図もあるが、成り上がりものがよくやる家系の粉飾と考えられる。
渡来人の集団を支配して進んだ知識や技術を持ったことから、蘇我氏の祖先を渡来人とする説もある。蘇我氏の起源が朝鮮半島にあるのかどうかはともかく、蘇我氏が、渡来人と密接に関係を持っていたために海外文化にも仏教にも明るかったことは確か。
しかし、なぜ伝統的権威のない蘇我稲目が大臣になることができたのか、これは歴史の謎。

政略結婚こそが蘇我氏の権力を大きくしていく、娘3人を天皇に嫁がせた天皇の外戚として権力を持つ。
蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿の4代直系一族による独占体制を築いていった。






535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。その間、木がほとんど生長しなかったのだ。

さらにグリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている。






任那日本府があったのか?

391年、大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設け、562年、任那の日本府が滅んだとあります。朝鮮からの渡来人が多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術が伝ります。

任那が日本の影響下にあった根拠は沢山有ります。新羅は古来より日本に貢物を送っていた事実から、日本が朝鮮半島に対して軍事・政治的に優位だったのは明白です。

『日本書紀』によると、任那四県を百済に割譲しています。
・・・かくも各種資料で確実な「任那」が教科書から消えつつあるのは、なぜかと言うと、韓国への配慮です。
古代から日本の支配下にあった事実が、韓国的には我慢ならないからです。

いずれにしろ、古代から日本は大陸と頻繁に交易、交流をしていました。





仏教が伝来してしばらく後、国内で疫病が流行った時、物部尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判しました。そのため、570年に蘇我稲目が死去すると、天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払ってしまいました。
家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだのです。
しかし、疫病はなくならず、天災も続きました。

ちなみに、投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て、この池の前をたまたま通りかかった信州の住人で本多善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見されました。
長野の善光寺縁起によると、仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていました。しかし、本多善光が池の前に来ると、金色の姿を現し、善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げます。善光はこの仏像(一光三尊の御本尊:阿弥陀如来像)を背負って信濃にもどり、自宅に置きました。ここが現在「元善光寺」があるところで、その後、642年、皇極天皇の時代に如来のお告げにより、本多善光が長野の善光寺に本尊を遷座しました。これは善光寺の創建に関わる話です。

571年 欽明天皇没する。
572年 敏達天皇が即位し、蘇我稲目の息子の蘇我馬子はなります。(蘇我馬子は歴史に疎い私でも名前だけは知っていた、それぐらい有名。)

584年、百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

585年2月、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。
3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。

物部守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。

同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。

敏達天皇の息子、穴穂部皇子は皇位を望んだが、同年9月、穴穂部皇子ではなく大臣蘇我馬子の推す大兄皇子(母は蘇我稲目の娘堅塩媛)が即位し、用明天皇となった。穴穂部皇子はこれに対抗するため大連物部守屋と結んだ。

586年5月、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の皇后、姿色端麗と記される美女、後の推古天皇)を犯さんとし、殯宮に押し入ろうとした。先帝の寵臣三輪逆は門を閉じてこれを拒んだ。穴穂部皇子は七度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。

穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であるとし、馬子と守屋は同意。
物部守屋は兵を率い磐余池で三輪逆を包囲しようとした。三輪逆は逃れて、炊屋姫の後宮に隠れた。密告により三輪逆の居所が知られ、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう守屋に命じた。守屋は兵を率いて向かい、三輪逆を斬った。

587年4月2日、用明天皇は病になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は詔を奉じて助けるべきとして、穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させた。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。

同年4月9日、用明天皇は崩御した。後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。

守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫を奉じて穴穂部皇子を殺害した。

同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、守屋を滅ぼした。

同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。

588年、馬子は善信尼らを百済へ留学させた。

591年、崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。

政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。
592年、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。
同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。

馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。
593年、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
このときに、「倭国」と呼ばれていた我が国を「日本(ひのもと)国」と改めたのです。




冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、603年12月、高句麗や百済での冠位制度を聖徳太子が参考にして作った、我が国初の冠位制度です。最初、中国で行っていたように、身分によって服装を変えようと試みましたが、それまでの豪族の身分制度を全て変えることは不可能でした。聖徳太子は、身分の上下に関わらず、能力のある者を役人に登用するという決まりを作ったのです。この冠位十二階の最終目的は、日本を中央集権国家にし、身分制度を確立することにありました。また、能力に合った、自由な人材を役人に登用していこうとするものです。

冠位十二階は「徳・仁・礼・信・義・智」の儒教の徳目で分けられたものです。紫・青・赤・黄・白・黒の冠の色に、それぞれ濃淡をつけて大・小とつけて区別しました。紫以外の色は、中国の「人間も社会も自然も、五つの元素である木・火・土・金・水の一定の循環法則に従って変わっていく」という五行説に基づいており、一番位の高い紫は、道教の尊いものを大切に扱うという色なのです。遣隋使として隋に派遣された小野妹子も、この制度で出世した一人です。
(でも、実際にはそれほど出世した人はあまりなく、小野妹子は特別に出世した人のようです)

このように色と地位が取り決められましたが、日本全国、全ての豪族や官人達にこの冠位が与えられた訳ではありませんでした。畿内やその周りの豪族のみに限られ、大豪族である蘇我氏や皇族には冠位は与えられていませんでした。当時の大臣は、大徳に定められた紫とは、別の紫の冠を着けていたとされています。大臣であった蘇我馬子は、聖徳太子と共に、冠を伝授する立場だったのではないかと言われています。こうして定められた冠位十二階は、大化の改新を迎えて、その後、冠位が増えてたびたび改正されていきました。




憲法十七条とは

604年4月3日、聖徳太子はまだ建設途中だった斑鳩宮に自分の臣下を集め、考案していた十七の憲法の原案を提示しました。これが日本で初めての成文法になります。成文法とは、ある一定の手続きをふんで制定され、文章で表現されているもののことを言います。内容は憲法というよりも、これから目指そうとする、中央集権国家に際しての君・臣・民の上下の筋道を新たに納得できるように教え、導くもので、その根本にあるものは儒家や法家、道家の考えであり、要は仏教からきているものでした。

十七条憲法は、十七条の条約などを箇条書きした文章で、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と書かれています。この皇太子とは、聖徳太子のことを指します。この十七条憲法は現在の憲法と違い、内容は官人の心得になっています。最初の第一条と、最期の第十七条の内容は、「和」がなによりも大事だということを重ねて注意しています。「争うことをせず、とことん話し合っていけば物事はうまく運ぶ」ということです。当時の日本が、どれだけ統一性がなかったのかが伺える一文です。十七条憲法を現代の言葉で、一言でまとめると以下のようになります。

第一条
・人と争わずに和を大切にしなさい

第二条
・三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい(三宝:釈迦、その教え、僧)

第三条
・天皇の命令は反発せずにかしこまって聞きなさい

第四条
・役人達はつねに礼儀ただしくありなさい

第五条
・道にはずれた心を捨てて、公平な態度で裁きを行いなさい

第六条
・悪い事はこらしめ、良いことはどんどんしなさい

第七条
・仕事はその役目に合った人にさせなさい

第八条
・役人はサボることなく早朝から夜遅くまで一生懸命働きなさい

第九条
・お互いを疑うことなく信じ合いなさい

第十条
・他人と意見が異なっても腹を立てないようにしなさい

第十一条
・優れた働きや成果、または過ちを明確にして、必ず賞罰を与えなさい

第十二条
・役人は勝手に民衆から税をとってはいけない

第十三条
・役人は自分だけではなく、他の役人の仕事も知っておきなさい

第十四条
・役人は嫉妬の心をお互いにもってはいけない

第十五条
・国のことを大事に思い、私利私欲に走ってはいけない

第十六条
・民衆を使うときは、その時期を見計らって使いなさい

第十七条
・大事なことは一人で決めずに、必ず皆と相談しなさい


十七条憲法ができたころの時代背景
その頃の中国では、とても権力を持った随が立ち上がっていました。実際国をまとめていた聖徳太子は、倭国(日本)が随の支配におかれないように日本の土台を急いでしっかりさせなければならないという必要性に迫られていました。そのため聖徳太子は、推古や蘇我馬子らを核とする中央集権国家の確率を目指したのです。特に6世紀の頃の大和政権は、朝鮮との外交が失敗に終わり、更には現在とは違い、統治は族制国家で、皇位継承権を巡っての豪族の対立もあり、危うい状況にありました。新羅が任那を滅ぼし、日本では守屋を倒して馬子が実験を取るようになります。蘇我馬子は推古を頂点に立たせ、推古の代わりに政治を推し進めたのが聖徳太子です。隋や百済が律令国家としてすでに政治が進められていたこともあり、外交を行う上でも、日本の立場をしっかりさせて、十七条憲法のような官人としての心構えを憲法として、文章でしっかりと書き示すことがどうしても必要なことだったのです。






遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されていますが、歴史上遣隋使といえば、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことをいいます。日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっています。遣隋使はわかりやすく言い換えると国家使節です。

聖徳太子が隋に送った手紙
聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。まず、日本を「日の出る国」、中国を「日が落ちる国」と表現したことに怒りました。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。聖徳太子にしてみれば、それまでの日本は新羅や百済と外交があったけれども、これからは隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたようです。

隋からの返書
ここで一つの謎が浮かび上がります。聖徳太子が持たせて煬帝を怒らせてしまった手紙ですが、これには返事が書かれました。しかし、この返書を日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも言われています。結局は日本に返書は持ち帰ることができなかったということです。
一説によると、怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、小野妹子が隠れて処分してしまったとも言われています。このため小野妹子は流刑になったとも言われていますし、推古が、中国から派遣されている人達の前で、妹子を罰することはできないとして、何一つ責任を取らせなかったとも言われています。実際、その翌年に、第3回遣隋使として妹子は隋に派遣されています。

小野妹子の年齢はよくわかっていません。推測で西暦570~590年頃の生まれではないかとされていますが、20年もの開きがあります。滋賀県の豪族の出だとされています。第2回、第3回の遣隋使として大陸へ渡っており、当時の船旅を考えると、無事に帰国できたのもとても珍しく、強運の持ち主ともいえるでしょう。実際、遣隋使の役目を果たした後、流刑になりながらも異例の大出世を果たしています。小野妹子は、聖徳太子の守り本尊でもある如意輪観音を守るよう命ぜられ、坊を建設して朝と夕、毎日仏前に花を供えました。これが池坊流のはじまりとされ、華道の祖とも言われています。実際、小野妹子が眠る塚を管理しているのは池坊なのです。小野小町も同族の人物です。






聖徳太子と仏教

聖徳太子は仏教の習得の意味も込めて、外交のために中国に遣隋使を派遣しました。その頃から奈良時代まで仏教が奨励されました。その思惑は仏教を利用しての国家鎮護です。このために政治の一部として仏教が取り入れられたのです。寺の建立や管理は公費でまかなわれ、僧には役人としての身分を与え、更には僧や寺を管理する法律までもが作られたのです。役人としての僧の仕事は、国の平和を祈ることが一番の目的となっていたのです。

大陸を渡って倭国に入ってきたのは、小乗仏教と大乗仏教がある中の、大乗仏教です。ユーラシア大陸の中央部や東部で信仰されてきた仏教で、苦しみの中にいる全ての者を救いたいという気持ちを持つことを前提としている仏教です。まさに、当時の倭国での有力豪族による政治で、民衆が飢えに苦しんでいる姿とこの大乗仏教の教えが重なったとも言えるでしょう。こうした教えを政治に取り入れようと、聖徳太子は考えたのです。

律令国家への第一歩。律令とは、儒教家と仏教家の考えを基本思想としたものです。儒教家は、道徳で民衆を収める政治を目指す考えと、仏教家は、国家権力の行使は議会の定めた法律に基づかなければいけないという考えです。律令の「律」は刑罰に関する法令、「令」は律以外の法令にあたります。こうした思想を基にしたのが中央集権国家であり、聖徳太子が目指していたものなのです。
律令国家は、誰にも平等に田畑を作る土地を支給し、その代わり、税金や労役なども一律に平等に課せるようになりました。
西暦701年に大宝律令が確立されることになります。聖徳太子が定めたとされている、冠位十二階はまさに、この誰もが平等に…に当てはまります。冠位十二階は身分に関係なく、有能な者であれば役人になれるというものでした。この太子が定めた制度は、律令国家への第一歩になったのです。そして、中央集権国家をも確立へと導いていきます。

聖徳太子・政治から仏教へ
飛鳥時代の政治家として有名な聖徳太子ですが、のちに仏教を広めることに力を注いでいきます。徐々に政治の場からも遠ざかっていきます。

聖徳太子の仏教の師は、高句麗の僧の恵慈という人物です。太子22歳の頃です。615年に恵慈が帰国するまでの間、随のことに関しても詳しく教えたと言われています。随は仏教を厚く保護しており、長安という地には寺院が数多くあり、仏教が盛んである。中央集権国家も確立されていて、役人の秩序として儒教が尊重されていることなども学びました。その頃の倭国は、有力な豪族が政治を思いのままにし、土地や山、海、民衆を自分らの所有物として扱い、民衆は飢えで苦しんでいました。この恵慈から聞いた話に、太子は心を動かされます。自分もそういう政治を目指そうと思ったきっかけにもなりました。

政治に仏教思想を取り入れて、一生懸命だった太子が政治の場から離れたのは何故だったのでしょうか。太子と恵慈によって派遣された第2回遣隋使ですが、これにより随との関係が開けたのです。その後、随が高句麗を攻め入る形であらそいが起き、高句麗の攻防により打撃は最小限に抑えられました。
結果的に随は内紛により滅んでしまい、「唐」の誕生へとつながります。これらのことは近隣の国にも知らされ、新羅対策で親密につきあいたかった随が滅んだとなると、馬子の慌てぶりは相当なものだったことでしょう。
間違った政治の行い方の責任問題が馬子に降りかかろうとしていました。ところが、馬子はこの全ての責任問題を太子と恵慈にかぶせてしまったのです。馬子が決めた対中国政策であるのにも関わらずです。もちろん責任は馬子にあったはずです。この陰謀により、太子と恵慈は政治の場から引きずり下ろされ、文字通りの失脚となったのです。馬子は太子の新しい仕事として、帝記や国記を書物にまとめることを命じます。

聖徳太子は十七条憲法を作ったあと、斑鳩宮に移り住んで、少しずつ政治の場から離れていったことは日本書紀にも記述があります。「三経義疏」などの制作に没頭するようになります。政治から少しずつ離れることで、徐々に仏教に没頭するようになったのかもしれません。太子は大陸から仏教が入ってきたときに、それまでは神道が古くから信仰されていた日本で、仏教と神道の根本にあるものが同じものだと見抜いた太子は、仏教の導入を決めたのです。仏教は小乗仏教と大乗仏教とに分けられるのですが、大陸から渡り、日本に入ってきたのは大乗仏教でした。仏教の教えを取り入れた政治を目指した聖徳太子ですが、政治の場から離れたのをきっかけに、数々の寺院の建立を手がけることになります。太子の生きているときには、仏教の目に見えた普及はありませんでしたが、彼の意思を継ぐ遣隋使達が、太子に代わって日本に仏教の教えを広めていったのです。

聖徳太子と七大寺聖徳太子は七つの寺の建立に関わったとされていて、七大寺と呼ばれています。この七大寺には、それぞれ国宝や国の重要文化財などがたくさんあります。聖徳太子が直接建立に関わった寺、指示をして建てさせた寺などがあります。

法隆寺
七大寺の中でも、聖徳太子が直接建立に関わったとされる寺です。指定文化財としての国宝も数多くあり、建造物18点、美術工芸品も20点にものぼり、重要文化財に至っては、建造物29点、絵画14点、彫刻に至っては掲載しきれない程の点数があります。この他にも工芸品や書籍や典籍、子文書や歴史資料が数多く文化財として法隆寺におさめられています。

法隆寺の歴史法隆寺は斑鳩寺とも呼ばれ、存在する木造の建築物としては世界最古のもので、1993年12月にはユネスコ世界文化遺産に指定されている寺です。法隆寺は推古と聖徳太子が、病に伏せる父、用明のために薬師像を祀り、607年に建立したと言われています。伽藍の並びは、金堂と塔が南北に一直線に並んでいる四天王寺と同じ並びでした。法隆寺が建てられてから64年後、落雷により焼失されたと日本書紀の記述にあります。現在ある法隆寺は672年から689年の間に再建されたのが、現在ある西院伽藍です。金堂が建てられ、五重塔と中門が711年に出来上がりました。平安時代の末期までには、鐘楼や経蔵、講堂、僧坊、西円堂、食道などが建てられ、西院の形が出来上がりました。その後も、慶長、元禄、昭和と3回の大修理が行われています。聖徳太子を偲んで、法隆寺の斑鳩宮跡には上宮王院夢殿が739年に建てられ、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、東院と呼ばれて太子信仰をする人々の集まる場所となりました。

聖徳太子怨霊伝説
焼失した法隆寺を再建したのは藤原氏ですが、この怨霊伝説とどういう関係があるのでしょうか。様々な説がありますが、これほどまでに藤原鎌足が法隆寺再建に力を注いだのには訳があります。鎌足は、自分が政治を動かすためには蘇我氏が邪魔だと考えました。そこで、聖徳太子の息子である山背大兄の命を蘇我氏にとらせて、太子一族を滅ぼさせるということをしました。次ぎに、太子一族を根絶やしにした蘇我入鹿に責任を押しつけて中大兄皇子を利用し、大化の改新を成功させたのです。しかし、藤原不比等からの4兄弟が命を落としたのは、聖徳太子の怨霊、祟りによるものだと考えた藤原氏が、恐れおののき、法隆寺の再建に力を入れ、太子の写し身とも言われる救世観音の頭に怨霊封じのために、杭を打ち込んだとするものです。果たして事実はそうなのでしょうか。山背大兄の怨霊ではなく、なぜ聖徳太子なのでしょうか。藤原氏がなんらかの怨霊を恐れていたのは確かかもしれません。それは、自分の陰謀の為に命を落とすことになった、蘇我入鹿の怨霊を恐れていたのかもしれません。この説が正しければ、法隆寺は怨霊封じの寺ということになってしまいます。


法隆寺四天王寺
大阪にある寺で、聖徳太子が一番はじめに建てた寺と言われています。国宝、重要文化財は法隆寺ほどではありませんが、やはり数多くのものが指定されています。

四天王寺の歴史四天王寺は蘇我馬子が建立した飛鳥寺とならんで、日本で最古の寺になります。西暦587年、蘇我氏と物部氏とのあらそいの中で、物部氏側が優勢になっていました。当時14歳であった聖徳太子は、ぬりでという木を使って四天王の像を彫り、「勝利することができたら、必ず四天王を祀る寺を建てる」と勝利祈願しました。結果、蘇我側の放った矢が守屋に命中し、物部氏を滅ぼすことになります。その6年後である西暦593年に、聖徳太子は摂津南波で四天王寺の建立に着手しました。聖徳太子が四天王寺を建立するにあたり、「四天王寺縁起」によると。「四箇院の制」をとったとされています。四箇院が指すものは、帰依渇抑、断悪修繕、速証無上、大菩提所のことです。聖徳太子の意図するものは、修行を行う敬田院、病の者に薬を出してあげる施薬院、病院のような施設の療病院、身よりのない者や現在でいう老人ホームのような施設の悲田院、この四つを基本として四天王寺を建てたようです。四天王寺の伽藍の配置は、南から、中門、五重塔、金堂、講堂と北に向かって一直線に並べられ、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。これらを回廊で囲んでいて、日本の建築様式としては、最も古いものになります。

長い歴史の中で、四天王寺は何度か焼失しています。836年には雷により主立った伽藍が焼失しています。近世以降は1576年の石山本願寺攻めで焼失し、豊臣秀吉により再建されています。1614年には大阪冬の陣で焼失。江戸幕府の援助で再建されました。1801年には再度雷で焼失し、1812年に再建されています。近年までこのとき再建された伽藍が残っていましたが、1934年の嵐により五重塔と中門が崩れ、金堂もかなりの打撃を受けました。1939年に五重塔は再建されますが、1945年の大阪大くうしゅうで、主要伽藍と共に焼失しました。現在の四天王寺は1957~1963年にかけて再建されたもので、鉄筋造りになっています。これほどまでに何度も焼失、再建を繰り返している寺は他にありません。

四天王寺広隆寺
京都の太秦にある寺です。太秦の名は、聖徳太子が広隆寺を建てるよう指示した人物、秦河勝の名前にちなんだものとされています。

広隆寺橘寺
橘寺は奈良県の明日香村にあり、聖徳太子誕生の地に建てられたとされています。田んぼの中に建ち、とても趣のある寺です。

橘寺中宮寺
法隆寺に隣接する中宮寺の本堂には、国宝で本尊でもある弥勒菩薩像があります。この菩薩の微笑みは、古典的微笑とも言われ。アルカイックスマイルとして、スフィンクスや名画モナリザと並ぶ、「世界三微笑像」と言われています。

中宮寺法起寺
この寺は唯一聖徳太子の没後に太子の意思によりできた寺です。世界遺産の一つとしても登録されています。地元では「ほっきじ」と呼ばれるのが普通でしたが、現在では元来の呼び方の「ほうきじ」と読むのが多くなってきています。

法起寺葛木寺
葛木寺は、他の六つの寺と違い、現存しません。どこにあったのかも色々諸説はありますが、現状ではまだはっきりしたことは分かっていません。


数々の偉業を成し遂げたとされている聖徳太子ですが、その死因も色々な説が囁かれています。なくなった日の説が二つあり、日本書紀には推古29年(622年)2月5日とされていますが、その原因は記されていません。そもそも日本書紀とは、蘇我一族を倒して頂点に登り詰めた、藤原氏側の書いたものなので、信憑性はどうかわかりません。もう一つの説が、西遊記の三蔵法師のモデルになっているとされている、玄奘三蔵という高僧がなくなった日と同じ、推古31年(624年)2月22日とする説です。斑鳩宮でなくなり、母である間人皇后が眠っている河内磯長になる御陵へ運んだとされています。

死因の伝説
平安時代の書に「聖徳太子伝暦」というものがあります。それによると、聖徳太子は生前、「○年の春にいくから工事を急ぐように」と、自分の墓を造る工事を急がせたと言われています。運命の日の前夜、立派な家の出の正室が3人もいるのにも関わらず、町人の出の膳部妃を呼び、「あの世へ行くから一緒に行こう」と告げるのです。沐浴して身をきれいにした二人は翌朝、冷たくなって発見されるのです。高貴な出の正室がいるにも関わらず、聖徳太子と膳部妃は同じ場所で眠っているとされています。様々な説がありますが、この、自ら命を絶ったとする説が一番有力なのでしょうか。






596年 蘇我馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。

蘇我氏は絶大な権勢を示す。

620年 蘇我氏は聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。
蘇我馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。

622年 聖徳太子死去。

624年 馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。

626年 馬子は死去した。

推古天皇は628年に没し、36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。




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2010/06/01 (Tue) 10:50 | # | | 編集

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