古墳時代

弥生時代、稲作を中心とする農耕社会が成立し、日本列島各地へ急速に広まり、農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられています。

3世紀中後半から7世紀頃まで(約400年間)は古墳時代と呼ばれます。
3世紀に奈良盆地を中心に前方後円墳と呼ばれる巨大なお墓が造られはじめます。この前方後円墳は北海道や東北地方北部、沖縄をのぞく全国で造られました。

古墳時代は大きく2つの時期にわけられます。古い時代は土を盛り上げた墳丘の上を掘り込んで、遺体を納める石で囲った部屋、石室を造る、竪穴式石室。
新しい時代になると大陸や朝鮮半島の影響を受けた新しいお墓の造り方、横穴式石室に変わっていきます。
同じ頃、日本に須恵器(すえき)や乗馬などの新しい文化も朝鮮半島からもたらされました。

その後、古墳時代も終わりに近づくと、群集墳(ぐんしゅうふん)と呼ばれる小規模の古墳がたくさん造られ、有力な豪族などの力の象徴としての古墳ではなくなっていきます。

前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられています。畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられています。まだ初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされています。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展しますが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては不明。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行。





古墳時代の前半までは、素焼きの土器、土師器(はじき)を使っていましたが、朝鮮半島から窯とろくろの技術が伝わり、土器作りの技術は大きく変化します。そこで登場したのが、須恵器(すえき)という青灰色の焼き物です。それまでの土師器は屋外で焼いていたので、温度が500~900℃までしか上がらず、赤みを帯びた軟らかい土器だったのですが、須恵器は窯を使って焼くため、1100~1200℃という高温で焼くことができ、かたく、水もれの少ない土器を作ることができます。

この須恵器はどこででも生産されていたわけではなく、窯の場所が限られ、須恵器を作る専門の職人がいました。大阪南に大きな釜の跡があり、多量に生産されています。

土師器(はじき)と須恵器(すえき)は、どちらも古墳時代から平安時代にかけて使用されますが、須恵器は高級品だったようです。




世界史では石器時代→青銅時代→鉄器時代と続きますが、金属材料 と加工技術は、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)、稲作とともに中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代
日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工
③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬

このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。

銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

古墳時代の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。
また、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。

鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。

また、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化した時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。

尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

奈良、平安時代になると、鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。
銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。





この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的とのこと。
私の子ども時代は大和時代だったように思います。

先日、行ったさきたま古墳公園、また行ってみたいと思います。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する