縄文式土器

昨日は渡良瀬公園の側のレッズランドへ。暑かったけれど、木陰は気持ちよかったです。夜も暖かく、小巻は涼しい廊下に、お腹をべったりつけて寝ていました。






縄文土器についてのお話しです。

縄文土器の造り手は、主に女性であったと考えられています。
狩猟や、漁労などの力仕事は主に男性が、住居近くの日常作業や、育児、土器造りなどの道具造り、布造りなどは、女性が行っていた様です。(石器を始めとした道具の大半は男性が作りましたが)

土器を造った際に出来た、指跡の大きさ、爪跡等の他、縄文の組紐、布目など、女性が造った物と思われる、痕跡が多く見られます。

但し、土器造りには、土の採取、運搬、小石や葉っぱ等を、取り除く土造り、製作、燃料の調達、野焼きと、色々な工程が有りますので、男女共同作業も、必要に成ります。

野焼きは、ある程度の量の作品が、出来てから行います。野焼きの労力から考え、たぶん数十個の作品を、一度に焼く、回数は、年に1~2度程度と、思われます。当時の一集落は、5~10軒程度が普通で、一軒で3~5個作る。
燃料の収集も大切。野焼きは部落の一大イベントだったと思われます。






男性が採取してきた土を精製します。土を乾燥させ、砕き、土に混ざる、木の根や枯葉、小石などを、取り除く事です。又、土は取れた場所により、色や粘りなどの、性質が違っています。

土器造りで、一番の問題は、作品が壊れる事です。壊れるのは、色々な場面で起き、原因も様々ですが、土が原因の場合も、考えられます。それ故、幾種類かの土を「ブレンド」したでしょう。

縄文土器の土には、砂が入っています。これは、収縮を抑えて、割れを防止する目的で、故意に入れたものです。又、他に「雲母」が入っている物も、有ります。

前回書いた関山式、黒浜式土器には植物の繊維が含まれています。早期終末期の東日本では、土に植物繊維を混入する方法が拡がります。ある種の草を乾燥させ、かなり細かくして丁寧に混ぜ合わせています。乾燥時に、収縮割れを防ぐ目的で、入れた物と思われます。

土器は当然、手作業で造りました、手が最高の道具であり、補助の道具に、木の枝をへらの様に使いました。
造り方は、ほとんどの場合、紐造りです。

紐造りは、万能で、どんな大きさや、形にも対応できます。一般に、「輪積み」や、「巻き上げ」による造りで、紐を積み上げ、紐と紐の間は、土を伸ばして、繋ぎ目を消します。

大よその形と大きさを、ほとんど即興の、思いつきで、どんどん作ったと思われます。但し、縄文初期の頃は、実用的な物を、造りましたから、使い道の無い物、使い難い作品は、造らなかったはずです。高さの大きな作品は、下部が乾燥したら、上部に積み上げる方法をとり、数日を要しました。

縄文土器は、時代により、場所により、形や文様が異なっています。この時代でも、人の交流は、かなり有りましたので、衣類や文様も、流行があったと思われます。新しい技術や文様は、除々に、周囲に広がって行きました。

縄文時代草創期の土器には縄目の模様はありません。早期から前期、縄目紋が付けられた土器が、多量に造られました。

縄目とは、草や紐(組み紐)で編んだ縄の事で、軟らかい土の表面に、圧し当て、その文様を作品に移す。縄紋は、単に縄のみでなく、紐を丸い木の棒に、巻きつけ、転がしながら、模様をつける。その巻き付け方によって、模様も変化します。その他、工夫して色々の、縄目が考案され、表面に圧し付けられました。

縄目以外の文様もあります。貝や木の実などを、押し当てて模様にしています。沈線紋と言い、「ヘラ」や棒で、作品に陰刻(凹み)し、丸や渦巻き紋をつけました。筋張り紋と言い、土で細い紐を造り、思い思いに、作品表面に、貼り付けています。この紐を直線や、複雑な曲線にしたり、紐上に色々細工した物も、見受けられます。






文様は、もちろん飾りの意味もありますが、作品の補強の意味も有ったと思われます。作品が壊れる事が、一番恐ろしい事。それ故、常に壊れない様に、何らかの、対策や、工夫を行いました。その一つが文様です。

文様を圧し付ける事は、土を締める働きが有ります。外側から、模様を付ける為に力が加わり、結果的に、土を締め、乾燥や、野焼きの際の、割れを防いでいます。
内側にも丁寧に縄目がつけられてる土器もたくさんあります。

筋張りの技法で、紐を貼り付けるのも、その部分の強度を、増す事に成ります。他にも、文様の効果(意味)は、有ると思います。(例、手が滑り難くするなど)

必要が有って、縄文土器の文様は出来、長い間、多くの土器につけられたとの考えに私は同感、納得です。






土器の形の特徴ですが、草創期から早期までに作られた土器は、全て、食物の「煮炊き用」で、それ以降の土器も7割以上が「煮炊き用」で占められていました。

食用に適さなかった、山野草も、煮る事により、食べられる様になり、生や焼いて食べていた獣の肉や、魚なども、煮る事で、汁も飲めるようになり、更に春から夏に掛けて、採取した大量の貝を、茹で上げ、乾燥させて、保存食にもしました。

この時期の土器は、ほとんど深鉢形態で、草創期では、丸底又は平底で、早期では底が尖った円錐形をしています。尖った底は、地面に置くのではなく、地面や、灰の中に差し込み立てて使用しました。

底には、火や熱で赤化した物や、白っぽく変化した痕が残り、土器の内、外部には、食物の焦げ付きや、「煮こぼれ」の痕が炭化し、煤状に「こびり付」いていたりします。土器の色は、土の種類や、焼成(野焼き)によって、黒、こげ茶、茶、黄土色が多いです。

疑問として、低い温度で、焼成した土器が、なぜ「煮炊き用」に使えたのか?
焼成直後の土器は、当然水漏れを、起こします。水漏れ防止は、「煮汁」を注ぎ込む事により、その中に含まれる、澱粉や、脂肪が、土器の隙間に入り込み、隙間を埋めます。更に乾燥させて固せます。これを繰り返します。

前期から中期になると、早期の、底の尖った尖底土器は、次第に消滅し、平底深鉢土器が一般化し、東日本では繊維土器が普及します。ほかに浅鉢・台付き土器も出現し、前期後半では、土器の種類も増え、甕、鉢、壷、椀も、作られて、縄文文様の最盛期に成ります。甕や壷は、食料の貯蔵用に、使われました。

新たな形の土器に合わせて、新しい装飾も生まれました。
東日本では、最初は紐を簡単に、撚り合せた施文具(模様を付ける為の、道具)でしたが、次第に複雑な施文具が、考案され、百種類程度が、確認されています。
西日本では、繊維土器は無く、やや薄手で、条痕文、ミミズ腫れ貼付文、爪形文が普及し、東日本の様な、施文具も無く、発達した模様は少ないです。
前期後半になると、東西の交流も増え、お互いの文様にも、影響が出て着ました。

中期の形、文様。
関東、中部地方では、 縄文土器を代表する、作品群が、登場します。
口縁部を炎の様に、飾った火焔(かえん)土器(新潟県、馬高遺跡出土)や、水焔土器(長野県、井戸尻遺跡出土)と呼ばれる、渦巻き文の、大把手(おおとって)深鉢、その他、口縁に鍔(つば)を、はめ込んだ様に、突き出た、有孔鍔付土器が等が有名です。

ほかに深鉢形・注口土器も作製され、渦巻文など、文様が複雑化します。注口土器は、液体を入れた物ですが、酒を入れたかどうかは、不明です。

作風は、厚手で大きく、装飾も立体的で、力量感に溢れ、豪華に飾り立てています。又、隆起文を全体に施し、人面や、蛇の文様をつけたり、踊る人形文や、三本指文や、人頭把手を付けた、大甕など、豪快な作品に、仕上げています。        

形も大型化し、高さが50~60cm以上の物も、珍しく有りません。この様な大きな作品は、女性や老人の様に、力の弱い者には無理で、文様の複雑さからも、男性の土器造りで、専門家(集団)が居たとするのが、妥当です。
この様な複雑な形の土器は、機能的、実用的とはいえません。祭祀の際に、使われた物と見られ、宗教的な意味が、込められていると、思われます。

中期も後半には、派手な隆起文も、曲線化し、把手も小型化して行きます。

後期に入ると、文様、形に大きな変化が現れます。厚手の大きな土器は、次第に薄くなり、用途に応じた、土器が造られていきます。(土器のかけらをみると、本当に厚いのよ、クッキーみたい)
深鉢、浅鉢、甕、壷、注口、台鉢等が、一般的に造られています。又、釣手形土器、蓋付土器、双口土器など、非実用的と思われる、器も造られ変化に富んでいます。

文様は、「ヘラ」状の道具による、沈線文のほか、磨消(すりけし)縄文の手法が発達します。
特に、磨消文様は、後期の中頃に、盛んに作られ、全国に普及しました。磨消文様とは、 土器の表面全体に、縄文を付けた上から、線描で文様の輪郭を描き、そこから、はみ出た縄文を、「ヘラ」等で磨り消して、輪郭内の文様を浮き出させる技法です。

晩期では、薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器があり、後者は、内面に炭化物が付着し、日常的な什器として、使用されたと、思われます。

亀ヶ岡式土器(青森県)は代表的な土器、器形を磨いた土器で、縄文土器、最後の華と、言うべきものです。一見理解不能な多様で、複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布され、器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めています。

西日本の地域の晩期は、縄文土器の衰退が続き、次の弥生式へと、移って行きます。

縄文土器が終末期になると、段々と無文で、赤焼きの物が増え、器形も整い、穏やかになり、弥生(土器)化していきます。弥生文化は、大陸から伝来した稲作が、早いスピードで、全国に広がり、農耕生活となり、生活が一変した結果、その用具(土器)にも大きな影響を、与えています。






土器を粘土で形作る技術も向上しましたが、野焼きもいろいろと工夫をしたと思われます。
熱を閉じ込める窯が、有りませんので、温度は高くなりません。大体600℃~800℃程度。
粘土は、560~570℃位で、結晶水が抜け、質的変化を起し、水を加えても、元の粘土に戻れなく成ります。それ故、土器として使用するには、600℃以上で、焼く必要が有ります。最初の400℃程度までは、ゆっくり焼成します。(現代でも同じです。)この間が、一番作品が壊れる温度ですので、土器の内部に残っている、水分を、蒸発させる為、6時間以上の時間を掛けます。

温度が高ければ、高い程、土器の強度は増し、壊れ難くなります。当時の人は、当然その事を知っていたはずです。温度が高くなる方法を、色々工夫したに違いありません。

「野焼き」の際に出る灰は、温度が高くなれば、釉薬(ガラス質)となり、より強く、美しい色の、土器に成るのですが、縄文時代では、今だ、釉薬の概念はありません。

釉薬の発見(発明)までには、「窯」の発達(発明)を待たなければ、成りません。






縄文人は漆を塗料(弓などの道具、土器や木製容器、装飾品、衣服などに塗られています)、接着剤(土器の補修など)として使っていました。
日本に自生する漆からは樹液が採取できないので、外来種の漆の木を栽培していたようです。
ベンガラという顔料(酸化第二鉄の粉末)で赤漆、すすで黒漆が出来ます。

土器に漆を塗るのは、もちろん美しく装飾するためもあったでしょうが、水漏れを防ぐ目的もあったのではと私は思います。






縄文時代のことを調べるうち、特に感じ入ったことは、1万年もの間、平和に暮らしていたということ。
人口は最高で約25万人ほど。人間の数も少なかったし、この頃の平均寿命は15才ぐらいだったと言われているからかもしれませんが。

女性は装飾品、高価な宝石なども身につけているが、それで争ったような跡はみられない。

縄文時代晩期には環境が変わり、気温2度前後低下、海面も低下、漁労活動壊滅的打撃受けています。この時期は世界的にも大きな気候変動が起きています。気候変動は同時に世界の文明史を大きく動かす事になります。中国は安定した殷の時代が終わり、この後戦国時代に突入します。
また西アジアではアッシリアができ、ユダ、イスラエルが登場し各国がせめぎあう時代に入ります。

日本に何らかの事情で大陸から集団で渡ってきた人々が弥生人。私たちは縄文人と弥生人の混血と言われています。

『インディアン嘘つかない、白人嘘つく』 昔、西部劇で何度も見たシーンを思い出しました。

きっと縄文人は嘘をつかなかった、嘘はありえなかったのではないかしら。自然を相手に暮らしていたら、嘘など意味ないもの、ありのままに生きていたのね。
人の争いごとの大半は、嘘をつく、嘘をつかれることから。恋愛のもつれもそうよね。

『縄文人うそつかない、弥生人うそつく』

それから、縄文人はすべてのものにカミを見ていた、とも言われます。聖霊というか、オーラが見えていたのかしら。私もオーラを見えるように感じられるように鍛えたら、見えるのかな。少しは縄文人の遺伝子がある筈だから。

そんな事より、家の中のほこりがお前には見えないのかい! と主人に言われそうですが。








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