縄文時代

縄文時代は、年代でいうと今から約13,000年前から約2,000年前、日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については多くの議論があります。

弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとされています。 集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

約1万年以上も続いた長い時代ですから初めのころと終わりではずいぶん様子がちがいます。縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効で、土器型式上の区分から、研究者は縄文時代を、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けています。






旧石器時代は氷河期だったので、海水面はいまから100メートルも低く、東京湾の入口付近まで海は後退し、川も今よりも低いところを流れる急流だったそうです。

草創期は約13,000年前から10,000年前。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であったと思われます。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきました。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていましたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われました。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになります。温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまいます。

環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になり、狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていきました。石器は局部磨製石斧が作られます。槍・弓矢が製作・使用されました。
土器は隆起線文系土器・豆粒文土器・爪形文系土器・多縄文系土器・円孔文(えんこうもん)土器などが作られます。
貝塚は不明。

隆起線分系土器というのは、底が砲弾のような形をしている深鉢。口縁部付近に1本ないし数本の粘土帯、さらにその粘土帯は小さく刻まれています。
豆粒文土器はその名前の通り、「まめつぶ」をくっつけたような突起のある土器。底が砲弾のような形をしている深鉢。
土器片には煤(すす)が濃く残っていたので、たき火の中に土器を立て、ドングリや獣肉などを煮ていた、と推測されます。
氷河期が終わり、温暖化が進む中で、大陸から切り離された日本列島では狩猟が限界に達し、食物を植物に頼るようになる。植生の変化によってドングリなどが豊富に採れだした。それを食べるには、あく抜きのための煮炊きが必要であり、世界の他の地域に先駆けて、土器を誕生させたのだろうと考えられています。

爪形文系土器群は、爪形文を有する土器のことで、文爪形には「三日月形」と「ハの字形」のふたつがある。「三日月形」は人の爪または竹菅状の施文具を押し当てて凹(へこ)ませる。「ハの字形」は、人差し指と親指で「つまむ」ような感じでつくる。器面全体に施文するのが特徴で、北海道と沖縄をのぞく日本各地に分布する。

多縄文系土器は、縄文土器の名前の由来となった「縄文」。縄文の施文方法には、撚紐などの施文具を押し当てる方法と、表面を転がす方法がある。前の方法を「押圧縄文」といい、転がす方法は「回転縄文」という。一般的に縄文という場合は「回転縄文」を指す。

円孔文(えんこうもん)土器は、口縁部に平行するように連続的に穴をあけた土器のこと。平底ないし丸底の底部を持ち、平縁の深鉢がその器形となっているようです。






縄文時代早期。約1万年前から6000年前。
日本列島が完全に大陸から離れて島国となっています。初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、徐々に海水面の高さが戻ります。

数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていました。
狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及しました。
石器は網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていました。

土器は押型文系土器群、撚糸文系土器群、貝殻文沈線文系土器群、貝殻条痕文系土器群、縄文・撚糸文の尖底土器が作られました。

貝塚が形成されます。この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていました。貝塚はヤマトシジミが主体で。
狩猟とともに漁労が活発化。屈葬。

押型文系土器群は、棒状の施文具を回転させることによって作られる文様をもつ土器。押型文には、山形・楕円・格子目・市松・綾杉(矢羽)などなどがある。本州から九州に至るまで広範囲に分布。

撚糸文系土器群は、撚糸文または縄文で施文される土器群のこと。草創期の多縄文系土器群の発展形と考えられる。撚糸文は木製(?)の棒に縄を巻き付けた施文具によってつくられる。時代を経るにつれて簡素化の傾向が強くなり、やがて無文土器になってしまう。

貝殻文沈線文系土器群は、貝殻腹縁文ないし沈線で装飾させた土器。土器に二枚貝の(片方の)貝殻を垂直に立てて、ギザギザのあとを残す方法で、沈線は凹(ぼこ)で表現される線で、文様帯の区画や、空白の充填などにつかわれたり、幾何学文様を描くのに利用される。施文具には木・骨・竹などが考えられているが、正確なことはわからない。北海道南部から関東地方に分布する。

貝殻条痕文系土器群は、貝殻で土器の調整を行ったか、あるいは文様として貝殻条痕文を施した土器のことである。貝殻条痕文は二枚貝の貝殻の外側を土器面に押し当てて引きずった「あと(痕)」のことをいう。関東地方から東海にかけて分布し、関東地方では、貝殻文沈線文系土器群のあとに出現する。






縄文前期。約6000年から5000年前まで。
環境は気候温暖で海面・気温上昇(海水面はいまより3~5メートル高くなる、約6000年前がピーク)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。常緑照葉樹と落葉照葉樹。
住居は竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。
木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。

土器 この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。
遺跡からは耳飾り・勾玉・管玉などの装身具。


羽状縄文系土器群
羽状(うじょう)縄文系土器は、右撚りと左撚りの2本の縄、もしくは真ん中で撚りを逆転させた縄を使ってされている。縄を回転押圧させると螺旋状になった痕跡が、回転方向の45度の角度で斜行する。これが斜行縄文と呼ばれるもので、原体中央で捻りを反転させると、回転方向に対して上45度、下45度の斜行縄文があらわれ、鳥の羽、あるいは矢羽に似ていることから、この名称があり、関山式・黒浜式などで多用される。発展するのは前期以降だが、東北地方の一部では早期末に出現する。

埼玉県蓮田市関山1丁目周辺に所在する縄文時代前期の関山貝塚が標式遺跡である。胎土に多量の繊維を含んでいるこの縄文前期特有の繊維土器であり、焼成によって炭化し、断面は漆黒色である。器形は、浅鉢もみられるが、深鉢が主体で、片口付き、台付き、注口付きなど多様である。底部は、平底か上げ底。縄文は普通の斜状縄文のほかにこの時期特有の羽状縄文が特徴的である。縄が、複節、複々節という2、3回以上よった縄を転がして施文したり、同時に施文しているのが特徴である。また、縄目によるループ文や縄文の境界部分にコンパス文という半円の弧状の文様を組み合わせて施文する場合も見られる。

黒浜式は、埼玉県蓮田市黒浜に所在する黒浜貝塚を標式遺跡としている。土器は胎土に多量の繊維を含んでいて、繊維は焼成によって炭化し、断面は漆黒色である。器形は、深鉢が主体であり、底部は、平底か上げ底。口縁は、波状のものと平縁のものとがある。この時期特有の羽状縄文が特徴的であるのは関山式と同じだが、縄が、複節、複々節という2、3回以上よった縄をほとんど使わないので、縄文が断面カール状の沈線になっているように見えること、胎土が関山式に比べてもろいこと、縄文が単純な羽状縄文が多く、ループ文はたまにみられるものの、縄文の境界部分にコンパス文を施文しないこと、沈線文も簡略化の傾向があるなどの特徴がある。

繊維土器(せんいどき)とは、土器制作時に胎土中に故意に植物の繊維を混入させた土器のことをいう。縄文時代早期及び前期の土器に顕著に見られ、土器の焼成は一般的に不十分で、土器の表面の繊維は抜け落ちて、非常に細く細かい溝状のくぼみとなっているが、内部の繊維は炭化して残存し、断面は表面の白っぽい部分にはさまれて漆黒色に見える。繊維は、主としてイネ科のような葉や茎が繊維質の植物の繊維をよく精製したものを使用したと考えられ、壁土に混ぜるような粗い茎や草をそのまま使用したものではない。土器の底部以外では、繊維は横に走っていることが多いが、これは、土器を粘土ひもの輪積みによって制作するために、あらかじめ粘土ひもを引き延ばす工程があるが、引き延ばされた粘土ひもに伴って、混入された繊維が横に走るようになったものと推察される。繊維を混ぜた目的は、粘土の粘性を抑えて、乾燥の際に亀裂を防ぐためと考えられる。繊維土器は、関東地方では、早期中葉の田戸上層式から現れ前期中葉の黒浜式を最後に消失する。地理的な範囲としては、関東以北の東北、北海道で盛行した。繊維土器を制作するために、繊維を粘土によくなじませて締まった胎土にするために、様々な縄文が発達した。






中期約5000年から4000年前
集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。
海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。
石棒(男根を模った石)・土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。
立体的文様のある大型土器が流行する。 火炎土器(新潟県中心)、水煙土器(長野県から山梨県にかけて)


縄文後期。約4000年から3000年前
製塩土器。文字通り塩を作る土器。海水を入れ、火にかけて煮詰めて塩をつくった。塩が製品として流通しはじめる。


縄文晩期。約3000年から2300年前。
北九州・近畿でも縄文水田。
土器 夜臼式土器。九州地方の縄文晩期末の突帯文土器。福岡県新宮町夜臼遺跡が標式遺跡。口縁と「く」の字に曲がる胴部にきざみのある突帯(とったい)を貼りめぐらした深鉢形土器です。最古の弥生土器(板付(いたづけ)・式土器)と共に出土し、縄文時代と弥生時代の接点にあたる重要な土器です。






縄文土器を調べていくうちに、何で丁寧に縄目模様をほどこしたのか、とても不思議に思い始めました。
誰かが時たま、縄目の模様を趣味でつけたとしても、それは何千年にもわたって続きません。
面倒なことを意味もなくやりつづけるという事は、生物学的にも無理。

学者さんが書いたものは、難しくて。調べていくうちに、陶芸家の方が書いているブログが私的にはヒット。
次回はそのことを。










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コメント

わたしもなんで 模様をつけたのか 知りたいです。楽しみにしてますね。

2010/05/04 (Tue) 17:25 | peramama #- | URL | 編集

◆peramamaさんへ
この長~い文章を読んでくださって、ありがとう。
ようやく、面白くなっていきそうですので、これからもよろしく、ね。

2010/05/05 (Wed) 03:57 | すずあき #NqNw5XB. | URL | 編集

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