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人類の誕生と旧石器時代

ブログにアクセサリーのようにつけているプラグインのgremsの木に、一昨日はウサギが来ていましたが、昨日はリスが来ています。いままではちょっとしか書かなかったから、何も来なかったのかしら。もっといっぱい書いたらゾウさんも来るかしら。でも、怠け者の私なので、そんなに書けません。






また、勉強の続きです。

過去数百万年は、4万年から10万年の周期で多くの氷期が起こっています。これについては研究がさかんに行われていますが、少なくとも4回の大氷河期がありました。120万~80万年前、50万~30万年前、20万~13万年前、7万~1万年前が氷期、その間が暖期です。

約7万年前から4回目の氷期に入っていましたが、約1万年前から気温が上昇し始め、現在の間氷期に移行しました。

人類の誕生は、というと。人類の祖先は600万~700万年前に、アフリカ大陸で生まれたと言われています。
大昔にアフリカ大陸の森林で暮らしていたサルは、豊富な食料に囲まれて暮らしていました。そこに何らかの事情で、草原地帯での生活を強いられ、ヒトの祖先は生き残りのために自らを変化させていったといわれています。

テナガザルからオランウータンが枝分かれし、さらにゴリラが枝分かれし、チンパンジーが枝分かれし、ヒトの祖先が枝分かれしたようです。

草原で生きる生活はサバイバルで、自分の力で外敵から身を守り食料を手に入れる必要があり、ヒトの祖先は知能を発達させ、道具を使用するという選択をしました。火と道具の支配によって人類は捕食者からの脅威を消し去り、数をどんどん増していき、生活範囲を拡げていきました。

そして広まっていく過程で猿人・原人などさまざまな種類のヒトが生まれました。僕たちの直接の祖先はそのうちの20万年前に誕生した新人だそうです。

他のヒトを駆逐していったのか自然に淘汰されたのかは不明ですが、猿人・原人は残らず、新人が人類を形成していきます。ペキン原人が中国人になり、ジャワ原人がインドネシア人になったわけではありません。
地球上には、今の新人以外の人類も誕生しました。中でも有名なのは、20~3万年前に存在したネアンデルタール人です。ネアンデルタール人は、私達新人とは別の系統の人類です。彼らも自分達なりの文化を持ち、新人よりも大きな脳を持っていましたが、声帯の構造上、言葉を話すことはできませんでした。彼らはヨーロッパを中心に暮らしていましたが、突然3万年前に絶滅しています。その理由は不明です。現存する人類は1種類のみです。


人類(新人)は誕生後、瞬く間に世界中に拡がっていきます。氷河期には海面が低いので今よりも陸地が広くなっています。陸地を歩いて移動しながら、人類は獲物を求め新しい土地へと進出していきます。

4万年前にはアフリカからインドネシアまでは陸続きでした。そこまで歩いてたどり着いたヒトは船で島づたいにオーストラリアに渡りました。約1万5000年前にはベーリング海を渡りアメリカ大陸にも進出しました。1万年前にはアメリカ大陸の南端まで到達します。ちなみにハワイに移住した人たちは、ポリネシア地域からさらに海洋に船で進出しすることによって約2000年前頃に移り住んだとされています。

約1万年前に氷河期がおわり、気候は温暖となり、極地の氷が溶けて海水面が上昇します。インドネシアやベーリング海は海で隔てられ、歩行による移動は不可能となります。人類はお互いの存在を知らないままそれぞれの歴史を歩んでいきます。

天敵のいない人間は世界各地に生育範囲を拡げ、人口も次第に増加していきました。しかしそこで環境の変化が人類をおそいます。農耕は人類が食糧危機に追いつめられる形で始められたと言われています。豊富に食料が身の回りにあるなら、必要以上の労働をする必要など無いからです。食糧危機を打破したのが、農耕の始まりです。
1万年前以上前に東南アジアでバナナ、タロイモ、キャッサバの栽培が、10000~9000年前にメソポタミアで麦の栽培が、約9000年前に中国南部でイネの栽培が、約7000~4000年前にメキシコ地域でトウモロコシの栽培が始まりました。






日本列島がいつごろできたかというと。

かつて日本付近はアジア大陸の端で、古生代には大陸から運ばれてきた砂や泥が堆積。大陸側プレートに海洋プレートが潜り込む中で、主にジュラ紀~白亜紀に付加した岩盤を骨格に、元からあった4~5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤と、運ばれてきた古いプレートの破片などを巻き込みながら、日本列島の原型が形づくられたと考えられています。

この時点では日本はまだ列島ではなく、山脈のような状況だったと考えられています。その後、中新世になると今度は日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来はじめます。2100万~1100万年前にはさらに断裂は大きくなり、およそ1500万年前には日本海となるおおきな窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大きさまで拡大。

不完全ながらも今日の弧状列島の形をして現れたのは、今から第三紀鮮新世の初め頃、約500万年前。約2万年前までは北海道の宗谷岬は大陸と地つづきで、最後の氷期が終わり、宗谷海峡が海水面下に没したのは、更新世の終末から完新世の初頭、約1万3000年から1万2000年前です。これは縄文時代の始まりと同時期です。

磨製石器の出土によって旧石器時代の人類の生息が示されていますが、火山灰に覆われた日本は、酸性土壌のため、化石が残りにくく、化石人骨の発見も少ない。

本州で最古の人骨は、静岡県浜松市で発掘された浜北人(約1万4000年前)、沖縄県で発見された港川人は、1万8000年前の新人。後期更新世か後期旧石器時代に当たり、骨格は縄文人に繋がる特徴を備えているといわれています。

縄文人はユーラシア大陸から渡ってきた(渡来)と言われています。






日本では縄文時代より前の時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、縄文以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていました。昭和24年に相沢忠洋が、群馬県の岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見し、日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まりました。(この話しは中学か高校の時に歴史の先生が力説していたな~、この年になって改めて振り返るとは思わなかったよ。私は不真面目な生徒だったのです。)

現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されていますが、これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前の後期旧石器時代に残されたもの。現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうか、後期旧石器時代のものです。

なので、日本列島の後期旧石器時代は、およそ4万年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前まで。
後期旧石器時代の前半と後半の区分は、日本列島を覆う広域火山灰である姶良火山灰の降灰を目安にしています。

後期旧石器時代の始めの頃の石器群は、台形様石器と局部磨製石斧に代表されます。
台形様石器は、今から約3万~2万5千年前にかけての旧石器時代に、日本中で作られた大きさ3~5㎝ほどの小型の石器です。主に台形をしているのでこう呼ばれるようになりましたが、実際の形はさまざまです。 上辺は鋭い刃で、それ以外の部位は表裏を薄く削そぐように、丹念に仕上げられています。

局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)は、刃先に磨きをかけた石斧のことである。大形獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いられたと推定されています。

石材は、黒曜石、珪質頁岩、チャート、サヌカイト、ガラス質安山岩など。

石器の作り方ですが、まず石の割り方。大きく分けて三つの方法があります。
1、石を他のものに打ちつけて割る方法
2、石を道具で叩いて割る方法
3、石に道具を押しつけて割る方法 

大きな原石などは、地面のより大きな石に打ちつけることで効果的に割ることができます。手足で支えた石は他の石や角、骨、木のハンマーで任意の大きさに割ることができます。さらに細かく正確に割るときは押しつけて剥がすよう割ります。ただむやみに石を叩くのではなく、叩くとその部分から約60度の角度で曲がって割れる法則があり、それをうまく使って石器をつくっていました。

ソフトハンマーは、鹿の角が最適で、落ち角と言って自然に抜け落ちた角が固くて丈夫です。
根元の太い部分を一本物のハンマーに、先端や枝角の先は押圧やパンチ用に使用します。
エゾシカは春先に角を自然に落としますので、この時期にシカの角を拾い集めます。

刃先は石と石をこすり合わせ磨きます。研ぎ石には砂岩などざらざらした硬い石の平らな面が使われたようです。

後期旧石器時代の中頃になると東日本においては発達した縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立。一方、西日本では横長剥片剥離技術が生み出され、次に発展する「瀬戸内技法」の基礎を形成する。つまり、石器技法の地域的特性がみられはじめます。

後半期には、その傾向が明確になり、地域性の確立した時期といえる。ナイフ形石器は、多様な形態に分類でき、その先端は槍に付けられたと推定されている。そして、日本各地で特色ある特徴がみられる。それはおよそ2万9000年前のこと。

こうした変化は、石器群の形式変化ばかりでなく、移動生活や生業活動にも変化がみられ、前半期には、それまで分散していた遺跡が、河川流域へ密集するようになり、遺跡数も急増し、人口が増加したと推定できる。さらにそうした社会変化を促す背景となったのは気候や生態系の変化なども関係しているものと考えられる。およそ2万9000年前を過ぎる頃、地球規模で寒冷期を迎え、やがて2万5000年前を前後する最終氷期最寒冷期へ突入していった。日本列島においては、2万9000年前に姶良カルデラが噴火し、列島全域を火山灰が降灰し、生態系に甚大な影響を与えた。

ナイフ型石器群と細石刃石器群がほぼ列島内全域に展開したのに対し、尖頭器石器群は東日本でも特に中部地域・関東地域において地域的な発展を見せる。

長野県和田峠、栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では良質な黒曜石を産出した。これらの場所で製作された尖頭器が関東の諸遺跡に運ばれ使用されたことが分かっている。尖頭器石器群が中部山岳地帯で発展したのは、そこに生息する動物の狩猟に適した石器であったと推測でき、また貴重な交易品だったと推測されている。

このころの人々の暮らしはというと、遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。

日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。

旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうした中にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもの。サヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。
調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、火が使われていたことが分かる。

そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。

日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていないが、一応北方から伝播してきたと考えられている。しかし特に証拠があるわけではない。旧石器時代の終末に、九州では豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。

石器時代の文化といえば、石器を思い浮かべるが、日本列島の豊かな森林資源を忘れてはならない。これまでに、板状の木製品と木の柱を使った住居跡が見つかっている。
木を工作し利用していたと考えられる。

旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。
旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。

漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段を持っていたことが想像できる。

さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。

縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。
彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達している。










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